HIDOI 前夜 3

作・椎名




高耶を乗せたウィンダムが高速を降りる頃、雨はすっかり本降りになり、外は真っ暗になっていた。

道なりに、数軒のファミリーレストランやファーストフード店が並んでいる。
以前は毎日のように友人と訪れたとあるファーストフード店の灯を見遣って、高耶は俯いた。友人には、今回のことは一言も云わずに来てしまった。
突然消えた自分を、友人達はどう思うだろう?

ふいに男が「疲れたでしょう。休みましょうか」と云って、その中の一軒のファミリーレストランの駐車場に車を入れたので、高耶はひどく驚いた。

この男とファミリーレストラン。あまりにも不釣り合いな気がする。
この男でもこういう店に入ることもあるのかと、高耶は変なことで少し安心した。
実はこの店も、男が株式を所有する系列企業のひとつに過ぎなかったのだが……



店内には数組の客がいた。
家族連れや、友人、恋人同志──彼らは皆、楽しそうだった。
もう自分は、此処にいる客達のように、家族や友人と食事することもないのかもしれない。
はしゃぐ家族連れを目の当たりにして、いたたまれない気分になり、高耶はそんな自分を叱咤した。
席に着くと、男はそんな高耶の心を読んだかのように云った。
「……後悔しているのではないですか?高耶さん」
後悔と云われて高耶はハッとなったが、すぐに顔をあげ、男を真直ぐ見つめると、きっぱりと「いいえ」と答えた。それは高耶の最後のプライドだった。

男はにっこりと笑って、
「そうですか。安心しましたよ。お腹がすいているようなら、此処で食べて下さいね。今夜はあなたには、いろいろとしてもらうことがありますからね」
意味ありげにクスクスと嗤う男に、高耶は俯いた。

とても食欲などなかった。この男が何を考えているのか、いったい自分に何をさせようとしているのか、まるでわからない。
ただ、何にしろ、それが自分にとって何かよからぬことに違いないとは容易に想像ができた。高耶の第六感は、今ならまだ間に合う、この男から逃げろと告げていた。



結局、二人ともコーヒーだけを頼んだ。
黙々とカップを口に運ぶ高耶を、男は微笑しながら見つめている。
味もわからず、それを飲み干したところで男が云った。
「そろそろ出ましょうか……ああ、その前に肝心のサインがまだでしたね、高耶さん」
アタッシェから、あの白紙の紙とペンが取り出され、高耶の前に差し出される。
「………、」
後ろの席で、一際楽し気な家族連れの笑い声が響いた。
こんなファミリーレストランで、自分の運命を決める署名をさせられるとは思ってもいなかった。

署名と捺印欄のみの白紙委任状。
高耶は、一瞬ごくりと唾を飲み込むと、躊躇うような表情を見せた。
だが、すぐにペンを取ると、迷いを振り切るように一気に「仰木高耶」と署名した。
「あとはここに拇印を押してもらうだけですが、それは後で構いません。とりあえず、これで契約は成立です」
男は満足気に笑い、それを受け取ると、大事そうにアタッシェに仕舞い込んだ。
これでもう、本当に逃げられない。
「………」
俯いたままの高耶に男が笑いかける。
「それじゃあ、行きましょうか。此処から家まではあと二十分もかかりませんよ」
そして、促されるまま立ち上がった腰に腕を回し、男が念を押すかのように囁いた。
「絶対服従……忘れないで下さいね」




やがて、土砂降りの中、ウィンダムは広大な敷地内にある、高耶がかつて見たこともないような豪邸の駐車場に滑り込んだ。車庫には他にも、映画や雑誌でしか見たことのない高級車が、何台も無造作に止められている。

男に促され、車を降りた高耶は一瞬目を閉じた。
覚悟は決めたはずだったが、実際に男の家に着いてしまうと、これから自分はどうなるのだろうという不安と恐怖が一気に押し寄せ、脚が震えた。
本人はおそらく自覚していないだろうが、今、高耶の顔は蒼白だった。
唇まで青ざめ、紙のように白くなったその顔に、男は高耶の内心の怯えを感じ取って、楽しくてたまらなかった。

ようやく手に入れた、あと数時間後には自分の下で喘ぐことになる、新しい生きた玩具。
(その怯えた顔が、そそりますよ、高耶さん)
男はわざと優しく声をかけた。
「疲れましたか?」
「いえ……、」
「それはよかった」
男が当然ともいう仕種で、腰に手をまわしてきた。
「ざっと案内しますから、ついていらっしゃい」



男の家は、まるで高級ホテルか美術館のようだった。
さりげなく通路の壁にかけられている絵は、どれも皆、有名な画家のサインが入っている。
男はこともなげに、
「此処は私の職場を兼ねたプライベートな家なんですよ。私以外の住人はあなただけです。使用人が数名いますが、気にしないで下さい。自分の家と思って好きに過ごして下さってかまいません」
「え、ええ……」



通された部屋は、二階のつきあたりだった。
そこはどうやら男の仕事部屋らしく、書斎スペースには膨大な書籍と資料がすっきりと片付けられており、高級そうな黒いデスクが置かれている。
そのデスクの後ろにドアがあり、その奥が驚くほど広いワンルームになっていた。バーカウンターを備えたプライベートリビング、段差で区切られた奥の一画がベッドルームになっている。

大きく取られた窓はバルコニーに通じていて、昼ならそこから広大な敷地が一望できるのだが、今は果てしなく暗闇が広がり、激しくガラスを叩く雨音以外、何も聞こえない。
「此処は私のプライベートルームで、私は会議がある時以外は、大抵、此処で仕事をしています。此処での生活に慣れるまでは、あなたも此処を自分の部屋だと思って下さい。気兼ねは入りませんよ。慣れてくれば、あなた用の個室をあげますからね。ベッド脇にあるドアがバスルームです。疲れたでしょうから、まずはシャワーでも浴びて少しゆっくりしていて下さい。後でしてもらうことがありますから、そのつもりで」

「あ、あの……っ、」
室内を見回し、目当てのものがないことに気づいた高耶が、躊躇いがちに口を開いた。
「なんですか?」
「家……に、電話したいんですが……」
すると男はにっこり笑って、
「家?今日からあなたの家は此処のはずですが?」
「………ッ、」
咄嗟に何と答えてよいかわからず、高耶は言葉に詰まった。
「あっ、……す、すみません……」
俯いた高耶に、男は苦笑して胸ポケットから携帯電話を取り出して高耶に与えた。
「無事に着いたことを家族に伝えてあげなさい」
「あ、ありがとうございます」
高耶は手渡された携帯で父親に電話を入れ、「自分のことは何も心配いらないから」と一言告げて電話を切った。
男は「また後で」と云って意味ありげに嗤い、高耶一人を残して出て行った。




とりあえず男と離れて一人になれたことで、高耶はホッと息をついた。緊張の糸が切れ、思わずソファに崩れるように座り込んでしまう。

高級リゾートホテルのような豪華な室内に、叩き付けるような雨音だけが響く。
この部屋で、本当に自分はあの男と暮らすだろうか?
なんだか、何もかもが非現実的だった。夢ならどんなにいいだろう。
だが、これは現実だ。
自分は二億の金と引き換えに、この家にやってきた。サインをしたのは自分の意志だ。
自分を生かすも殺すも、あの男次第。
「してもらうことがある」と男は云ったが、いったい何をさせようと云うのだろう。
打ち消そうとしても、得体のしれない不安が次から次へと押し寄せ、いてもたってもいられなくなる。

気がつけば、緊張のあまり喉がカラカラになっている。
水が飲みたいと思った。ついでにシャワーを浴びてしまおう。
逃げ出したいのを必死で堪え、高耶はそんな自分を叱咤するように勢いよく立ちあがると、バスルームに向かった。




熱いシャワーを頭から浴びると、少しだが気分が落ち着いた。
だが、シャワー室のドアを開けると、さっきまで着ていたシャツやジーンズがいつのまにかなくなっていて、高耶は眉を顰めた。変わりに、ごく薄手のローブが用意されている。どうやらこれを着ろ、と云うことらしい。
他に着替えられそうなものが何もない為、高耶はそれを羽織ってバスルームを出た。
すると、思いがけずベッドに優雅に長い脚を組み、同じくローブ姿でグラスを傾け、微笑している男と目があい、高耶は咄嗟に上げかけた声を必死で飲み込んだ。

「どうしたんですか?そんなに驚いた顔をして……俺が此処にいるのがそんなに嫌?」
高耶は慌てて、
「いっ、いえ、そんなことはっ……」
「そうですね。例え嫌だとしても、あなたに俺を拒否することはできない」
男は楽し気に笑い、サイドテーブルから、先ほど高耶がサインをした白紙の紙を取りあげて「仰木高耶」とサインされたその上に微笑しながら口づけた。
たかが紙切れ一枚。
だが、これにサインしたことの重大さを、絶対服従の意味を、まだこの少年はわかってはいないだろう。
「この日を待ちましたよ……高耶さん」



男はゆっくりとベッドから立ち上がると、茫然と立ち尽くしている細い体の背後に回り、背中から腕を回して自分の方へと抱き寄せた。
途端、体の強張りが伝わって、男の嗜虐に火をつける。
高耶の心臓がローブの上からもわかるほど、早鐘のように脈打っていた。
「やっとあなたを手に入れた……」
男は耳元にうっとりと囁いた。
「二億の買い物はどうだったのか、確かめさせて頂きましょうか……」


To Be Continued...



NEXT >> BACK