HIDOI 前夜
作・椎名
父親の会社が倒産した。突然、前触れもなく取り引き先の契約を切られたのだ。
理由は一切不明。
父親は銀行や身内を駆け回り、なんとか借入先を探したが、死にもの狂いの努力も虚しく、一夜にして、仰木家は一生働いても返済できないほどの多額の負債を抱える羽目になった。ささやかだが、幸せだったマイホームは担保に取られ、仰木家は小さな団地の一室にひっそりと移り住んだ。
高校をやめて働くと云いだした高耶を、父親は「高校だけは何があっても出なさい」と云ってひきとめ、高耶は高校に行きながら、夜は遅くまでアルバイトをして、少しでも生活費の足しになればと必死に働いた。
だが、債権者の取り立ては容赦なく続く。
相次ぐ取り立てに、口には出さないが、父親も妹も疲れ果てている。なんとかしなければ……そう思っても、高校生の自分に何ができる?そんな時だった。
突然、債権者最大手の橘物産を経営する直江家の次期社長と名乗る男が声をかけてきた。それも父親にではなく、直接高耶へ。橘物産と云えば、メディアに登場するほどの大企業だ。その次期社長が、債務者の子供とはいえ、まだ高校生の自分に、いったい何の用があるというのだろう?
怪訝に思ったものの、債権者からの申し出を断わることもできず、高耶は云われた通り、指定されたホテルのロビーに向かった。相手が何を考えて自分を呼び出したにしろ、高耶は少しでも返済を待ってくれるよう、頼むつもりだった。
父親の会社が景気がよかった頃は、このホテルのレストランでよく家族で食事をした。日々の生活にも困るほど窮している今は、それももう夢だ。
午後二時の待ち合わせ時間はとっくに過ぎていた。
ロビーの椅子に腰を下ろし、高耶が外を眺めていると、エントランスにダークグリーンの高級車が横づけされ、モデル並の容姿の男が、優雅な仕種で降り立った。ロビーに入ってきた男は、高耶を見つけると足早に近づいてきた。
「仰木高耶さんですね?」映画俳優かモデルのような容姿に、高級そうな黒のスーツをさらっと着こなした男は、優雅に微笑みかけた。
「橘物産の直江です。お待たせしてすみませんでした。道が混んでいて、思った以上に時間がかかってしまったものですから……よく来てくれましたね」高耶は正直、面喰らった。この男が、自分達を追いつめている債権者にはとても見えなかったからだ。
「あの……、どうも、はじめまして、仰木…高耶です」
どう挨拶していいかわからず、戸惑いながら頭を下げると、男はまたにっこりと微笑って、
「高耶さんは、昼食は?」
「あ、まだ……、」
「それはよかった。私もなんです。つきあって頂けますか?」男はまるで高耶をエスコートするように、高耶の肩に腕をまわしてきた。
高耶は驚き、戸惑ったが、まさか振払うわけにもいかず、二人は連れ立ってエレベーターに乗り込むと、最上階のラウンジへ向かった。黒いスーツを着こなしたモデルのような男と、ジーンズに白いシャツにスニーカーの、見るからにごく普通の高校生の二人連れはかなり目を引くらしく、すれ違う客は、皆一様に振り返る。
特に女性客はあからさまな視線を投げかけてきて、高耶はいたたまれない気分だった。ラウンジでは、予約してあったのだろうか、支配人以下、従業員全員が丁重に出迎えた。
男はそれに軽く目で頷くと、案内の支配人に続き、奥の個室に向かった。無論、その間も男の手は高耶の肩にまわされたままで、中にいた客は無遠慮に好奇の視線を投げかけてくる。高耶はその視線から逃れるように俯き、男に促されるまま歩いた。
ようやく個室に入って、高耶はようやく、まわりの客から見られずにすむと内心ホッと息をついた。
支配人の手で椅子がひかれ、大きなテーブルをはさんで男と高耶は向き合うように席に着いた。
「高耶さんは、メインは肉と魚、どちらがいいですか?」
「……あの、じゃ、魚を……、」
「では、二人とも魚で」
男がこともなげに云い、支配人は丁重に頭をさげて出て行った。ドアが閉められると、完全に男と二人きりである。まわりの視線は気にならないものの、これはこれで居心地が悪い。
個室はホテルの中でも絶好の位置にあるらしく、一画がガラス張りで、松本市街が一望できる。男はそれに目をやって、穏やかに笑った。
「部屋も悪くないし、料理もなかなか美味しいので、いつも松本に来る時は、此処を利用しているんですよ。あなたも家族で来られたことがあるのでは?」
「……え、ええ……昔は……、」
「そうですか」
「あの……、」
戸惑いながら切り出したものの、何と云えばよいのか途方にくれてしまう。改めて男に視線を投げかけると、年は二十代後半だろうか?本当にモデルのような端正な顔をしている。そして、その容姿にあった優雅な仕種。何もかもが自分とは違う。
日本の誇る大企業の次期社長である。住んでいる世界が違うのだ。違う世界の人間と云うのを、高耶は初めて見た気がした。
男が「話は食後にゆっくりしましょう」と云うので、そのまま無言の食事タイムになった。最初は緊張の為、味がよくわからなかったものの、食べだすとそれはやはり美味しかった。男は高耶が食べるのを、微笑みながら見つめていた。
食事が終わり、食器が下げられ、コーヒーが運ばれて来ると、男は「失礼」と云って手許の携帯を取りあげ、誰かに指示を出した。そんな何気ない仕種まで、本当にさまになっている。
ほどなく、秘書と思われる男が、ひどく重そうなジェラルミンケースを持って現れ、頭を下げて出て行った。
再び二人きりになると、男はにっこり笑いながら「美味しかったですか?」と聞いた。
「ええ……、とっても」
「それはよかった」
男は微笑み、優雅な仕種でパーラメントに火をつけ、紫煙を吐き出すと、それまでと変わらぬ穏やかな口調で切り出した。「お父さんの会社は、残念でしたね。二億…でしたか?」
途端、高耶の体が強張った。
「……ええ、」
「妹さんは中学生になったばかりだそうですね。大変でしょうねぇ」微笑みながら話す男に、高耶は唇を噛みしめる。その二億円のうちの殆どは、橘物産の子会社への負債だった。
高耶は男を見据えると、思い切って切り出した。
「あの……、何でオレを……呼び出したんですか?」
すると男は、先ほど届けさせたジェラルミンケースを高耶に促した。
「開けてごらんなさい?」
わけもわからず、戸惑いながらも云われるままそれを開けた高耶は、あっと息を飲んだ。中に入っていたのは、映画やドラマでしか見たことのない、帯のついた現金。
男はこともなげに、
「二億です。あなたのお父さんの抱えている借金と、同じ額ですよ」
「………、」
高耶は唇を噛みしめた。いったい、この男は何を考えているのだろう?男にとっては大したことはないのかもしれないが、仰木家にとっては、家族で一生働いても返せないだろうと云う大金。それを見せつけて、いったい自分にどうしろと云うのか?どうしてこんな酷いことを?高耶には理解できなかった。
男はにっこり微笑むと、
「高耶さんは、『絶対服従』と云う言葉をご存知ですか?」
突然、とんでもない言葉を云い出されて、高耶は面喰らった。知っているかと云われれば、もちろんそのぐらい知っている。怪訝そうに頷いた高耶に、
「それでは……もし、あなたが私にその『絶対服従』を誓えば……あなたのお父さんの抱えている負債を、そのケースの中の金で、今直ぐ肩代わりしてあげると云ったら……どうします?」
高耶の目が怒りのあまり見開かれた。ふざけるにもほどがある。「冗談ではありませんよ、高耶さん」
男はにっこり微笑むと、そのケースの扉の仕切りから、一枚の紙とペンを取り出して、高耶の目の前に差し出した。サインをする箇所がある以外、何も書かれていない白紙の紙だ。「これは白紙委任状と云って、これにサインをしたら、後で何を書かれても、それに従うことを誓います、と云う意味なんですよ」
ふざけるな!と怒鳴りたいのを、高耶は必死で堪えた。この男は債権者だ。機嫌を損ねれば、父親の立場がより悪くなる。
それに、現金を見せられ、高耶の心は揺れ動いていた。この男が何を考えているのかはわからないが、すでに父親も妹も限界が来ている。この金があれば、家族が救われる。自分さえ我慢すれば……
そんな高耶の様子を見て取った男は、またにっこりと微笑って、
「……そう、偉いですね、高耶さん。万一、私の機嫌を損ねたりしたら……お父さんが大変ですものね。それにせっかくのいい話が、なかったことになってしまうかもしれませんしね?」
心を読まれて、高耶はカッと赤くなった。男はなおも穏やかな口調で続ける。
「もちろん、あなたが嫌なら、それはそれでこの話はなかったことになりますが。でも、そうしたら、あなたはもちろん、あなたの大事な妹さん……美弥さんでしたか?美弥さんも死ぬまでお父さんの負債を抱えることになりますね。可哀相に。まあ、女性なら、それなりの仕事もあるでしょうが」
高耶は唇を噛みしめ、視線を逸らした。本当なら二、三発殴ってやりたいところだったが、必死で堪えた。男は変わらぬ口調でにっこりと微笑みながら云った。
「どうですか?『絶対服従』ですよ。誓えますか?」家族のことを思えば、迷っている余裕はない。これはチャンスだ。自分さえ我慢すれば、二億の負債がチャラになる。夢のような話ではないか。父親と美弥は元通りの生活ができる……
俯いた高耶の態度を、肯定と見て取った男は、変わらぬ微笑を浮かべたまま、云った。
「脱ぎなさい」
再びとんでもないことを云われて、高耶の目が見開かれた。いったい何を云いだすのか?いくら個室とはいえ、白昼のホテルのラウンジである。いつ誰が入ってくるかもわからない。
「何云っ、……」
「脱ぐんですよ。下着も、全部です」
高耶は途端にカッと赤くなって、
「そんなこと……ッ、」
できるわけがないではないか。縋るような表情の高耶に、男は苦笑して、
「高耶さん。あなたはまだまだ子供ですね。『絶対服従』と云う言葉の、本当の意味がぜんぜんわかっていない」
「………」
「文字通り服従です。従うんです。あなたは私の奴隷になる、と云うことですよ。私が何かしろと云ったら、あなたはそれに決して逆らえない。私が服を脱げと云ったら、脱ぐんです。これにサインをすると云うことは、そういうことです」俯いてしまった高耶に、男は優しく云った。
「あなたも考える時間がほしいでしょうから、今夜一晩、時間をあげましょう。私は今日は此処に泊まります。明日、あなたの家にさっきコレを届けにきたあの男を使いに出します。覚悟ができたら、彼と一緒にいらっしゃい。いいお返事を期待していますよ」男と別れ、ホテルを後にした高耶の頭は、パニックになっていた。
どうしたらいい?あの男はどうかしている。マトモそうに見えるから、よけいに恐ろしい。高耶の本能が、あの男には二度と会うな、かかわるなと告げている。でも……のろのろと家に帰り、ドアを開けると、受話器を持ったまま、誰にでもなく頭を下げている父親の後ろ姿が目に入った。
「……ですから、あと少し待って頂けないでしょうか……」
督促電話だった。例え相手が待ってくれたとしても、無論、返すあてなどない。
憔悴しきった父親の背中。自室で泣いている妹。高耶は目を閉じた。
──迷う余地はない、と。
翌日の午後、本当に昨日、金を届けに来た男が、直江家の使いとしてやってきた。
橘物産次期社長の秘書だと名乗ったその男は、あの男が云った通り「高耶を直江家で引き取るかわりに、負債を肩代わりする」と云う条件を提示した。呆気にとられた父親は「息子を金で売るようなことはしない」とその場で断わったが、すでに高耶の心は決まっていた。
「行きます」
「高耶の部屋も着替えも、何もかも用意してあるから何も心配はいらない」と云われ、父親や妹の制止も聞かず、高耶は着の身着で秘書の運転する車に乗り、昨日のホテルに向かった。
ホテル一階の喫茶室の、奥まった上席に男はいた。
今日も一目で上流社会の人間とわかる高級そうなスーツに身をかため、女性客の羨望の眼差しを一心に受けているが、本人はまるで気にしていないようだ。秘書に伴われ、俯きがちに入ってきた高耶を見て、男の顔に笑が浮かんだ。
「高耶さん、来て下さったんですね。嬉しいですよ」
「………あの、」
昨日と違って個室ではなく、人目がある為に、金のことを云い出せず口ごもっていると、男はそれを察して、
「わかっていますよ。約束ですからね……君、指示した通りに」
と云った。秘書は、一礼して出て行った。「彼が今から、あなたのお父さんのそれぞれの債権者のところへ、あの金を入金します。当座の生活資金も届けさせますから、もう家族のことは何も心配いりませんよ」
男の言葉に、高耶は静かに頭を下げた。
「それでは、私達も行きましょうか。ああ、云い忘れていましたが、私の家は宇都宮なんですよ。あなたの部屋もちゃんと用意してあります。きっと気に入りますよ。安心して下さいね」昨日と同じように、男は当然とも云うような仕種で高耶の肩に腕をまわしてきた。
連れ立ってホテルを出、正面玄関に横づけされたウィンダムの前で、男は穏やかだが、念を押すように云った。「後悔──しませんね?」
高耶は微かだが、しっかりと頷いた。この先、どうなるのか……何もわからない。
わかっているのは、何があろうと、もう引き返すことはできないと云うことだけ。男の手で、ドアが開けられる。高耶は迷いを断ち切るように、自ら助手席に乗り込み、ドアを閉めた。
高耶を乗せたウィンダムは、滑るように走り出した。
何処までもどんよりとした空が広がっている。
二人の乗った車が高速に乗る頃、ついに降り出した空は、やがて叩き付けるような雨になった。まるで、これからの高耶の運命を象徴するかのように。
To Be Continued...