HIDOI 前夜 2

作・椎名




高耶は隣でハンドルを握る、端正な男の顔を横目で見遣った。

この男にとっては大した額ではないのかもしれないが、取り立てて特に取り柄もない、ごく普通の高校生の自分を、二億と云う大金で、あっさり買い取った男。

金持ちの気まぐれにしては、度が過ぎている。だがその気まぐれで家族が救われ、自分はその代償として、この男に「絶対服従」すると云う事実──高耶はその言葉の意味を噛みしめた。
この男はいったい、何を考えているのだろう?自分に何をさせようと云うのか……


高耶が今、何を考えているのかが手に取るようにわかって、男は無意識のうちに笑が零れるのを抑えられなかった。



今から一月ほど前。

橘物産の子会社の橘建設が、松本市郊外に大型のリゾート施設をつくる話が持ち上がった。男はその予定地の見回りに、初めてこの地を訪れた。

市内を車で流していると、ふと一人の高校生が、ビルとビルの間に蹲っているのが目についた。
(何を……?)
なぜかその少年の後ろ姿が気になって、男はつい路肩に停車して、しばらく彼を見遣った。少年はビルとビルの間に入って行く。ほどなく戻ってきた彼の腕の中には、小さな灰色の子猫が抱かれていた。

男はフッと笑った。──くだらない。

すぐにエンジンをかけ、発進しようとした時。その猫をあやすのに、俯いていた少年が顔を上げた。
(………、)
正直、男は驚いた。こんな田舎に、これほど目をひく少年がいたとは……すらっとした体型に制服のジャケットが良く似合う。くせのない黒髪、意志のはっきりとした瞳。
少年の整った顔はもちろんだが、何より男は、彼のその目が気に入った。

「痛てっ!」
ふいに彼が声をあげた。どうやら子猫にひっかかれたらしい。
「お前、いてーよ、ちっとは加減しろよな」
少年は苦笑して、子猫を撫でてやったが、どうやらかなり酷くひっかかれたらしく、遠目にも血が出ているのがわかった。
少年はその手を口に持って行き、ペロッと舐めた。白い手の甲を、一瞬紅い舌が這う──その様子を、男は食い入るように見つめた。

──その瞬間、高耶の運命は決まった。

男の顔に、笑が浮かんだ。思いがけず、久しぶりに楽しめそうな玩具を見つけたと云う、喜び。

上等の女は望めばいくらでも手に入る。男が欲しいのは刺激だった。暇つぶしの、乾きを癒す玩具は、いくらあってもいい。男は心の中でその少年に話しかけた。

(──これから、つきあって頂きますよ)

男は徐行運転で、その少年の後をつけた。
住宅地に入り、しばらくすると、中学生ぐらいの少女が彼に駆け寄り、彼の腕の中の子猫を見つけて大騒ぎになった。
「きゃーっ、お兄ちゃん可愛い!にゃんこー!」
「ばか、大声出すな、にゃんこが怖がるだろ」
どうやら、その少女は彼の妹らしい。この年代の兄妹にしては仲が良さそうだ。

少女は彼の手に自分の腕をまわしている。
その様子は、男の気に触った。自分の玩具に勝手に触れられるのは、例え家族であろうと、面白くない。

やがて二人は連れ立って、一軒の家に入っていった。手入れされた小さな庭、いかにもささやかなマイホームといった風情だ。
完全に二人が中に入り、ドアが閉められると、男は車を降りてその家に近づいた。

新しい玩具の名前を確かめなければならない。
表札には「仰木」という名字の他に、三人の名前があった。
父親らしい名前と、「高耶」と「美弥」。

男の顔にまた笑が浮かんだ。
(仰木高耶──あなたは高耶さんというのですね)

中から、二人のはしゃぐ声が聞こえてくる。

(高耶さん──この家で暮らすのも、あと少しですよ。もうすぐ、あなたは私のものになるのですから。今のうちに、うんと楽しんでおきなさい)

その後の男の行動は早かった。
たまたま高耶の父親が、自分が所有する企業の下請け会社を経営していると知った時は、笑いが止まらなかった。裏で手を回し、その会社との取り引きを切らせると、小さなその会社はあっけなく倒産した。

仰木家は家を売り、市営団地に移り住んだ。多額の負債を抱えさせ、取り立てで苦しめ、どうしようもないところまで追いつめた上で、声をかける──何もかもが思い通りだった。



助手席で、雨の車窓をぼんやりと眺める高耶。

彼を手に入れる為に投資した二億など、大した額ではないが、それでも、たかが使い捨ての玩具に、これだけの金と時間と手間を費やしたのは、彼が初めてだった。

男は、込み上げる笑を抑えることができない。

(これから、うんと楽しませて下さいね、高耶さん)


──今夜、高耶を抱く。
その時彼は、どんな顔をするだろう?


To Be Continued...



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