* undo * mira version 前編



『―――すみません、高耶さん。今日も遅くなりそうなんです。夕食は私の分はいいですから、一人で食べて、先に休んでいてくれますか』

とある火曜日の午後三時―――電話の向こうで、男は本当にすまなそうに言った。

ウォーターフロントに建つ高層マンションの最上階で、高耶が男と二人で暮らすようになって二年――とある外資系商社に勤める男は、半年前から新たなプロジェクトをまかされ、仕事に忙殺される日々を送っている。

「いいよ、忙しいんだろ。オレは大丈夫だから、心配すんな。お前も飯ちゃんと食えよ」

じゃあな―――
多忙な男を気遣い、手早く通話を終えようとする高耶を、男が慌てて引き止めた。
『待って下さい、高耶さん切らないで』
「―――なに?」
『………愛していますよ』

もう何度、耳にしたかわからない、その言葉を不意打ちのように告げられて、高耶は一瞬絶句し、苦笑した。
まったくこの男は………。

「……ばーか」

通話を切り、んなこと、わかってるよと、照れくさそうに呟いた時、不意に細い左手首から、ブレスレットが外れて、フローリングの床に音を立てて落ちた。


「………!」
それは、数年前、男と出会ってまもない頃、半ば無理矢理、プレゼントされたものだった。

一見、シンプルなバングルに見えるそれは、実は目立たない部分に、高耶の誕生石であるルビーを散りばめた高価な品で、止め具部分に鍵がかかり、男の持つ鍵がなければ外せない、特殊なものだった。

落ちたブレスレットを拾い上げた高耶が、よくよく金具を確かめてみると、止め具そのものが欠けてしまっている。
これでは、修理に出さなければ使えないだろう。


簡単な夕食とシャワーを済ませ、バスローブを羽織ってソファに座り込み、壁の時計に目をやると、まだ午後八時をまわったばかり―――高耶はため息をつき、自嘲するように笑った。


男と暮らすようになってから、高耶は仕事をしていない。
日々の買い物も、週末、男と一緒に出かけて済ませる為、高耶は長い一日を一人きりで過ごしている。


生活は裕福で、何の不自由もないのだが、時間をもてあました高耶が、幾度となく働きたいと申し出る度、男に「どこにも行かず、自分だけのものでいてほしい」と真摯な表情で抱きしめられて、高耶はそれ以上、強く言えずにいた。
悪い虫がつくからと―――男は真顔で言う。

まったく女じゃあるまいし。
あいつはいったい、オレをなんだと思っているのか。
そうして人を強引に家に縛りつけておいて、自分は散々、家を空けているのだから、なんとも勝手な話だと思う。
だが、そんな身勝手な男を、よりによって伴侶として選んでしまった自分も、大概だとは思うが。


幼い頃、夫の暴力と生活苦に耐えかねた母親が、妹を連れて出て行き、残された父の元で、親の愛情を殆ど知らずに育った高耶は、誰かに、これほどまでに求められたことがなかった。

男と出会うまではよかったのだ。
孤独には慣れていたし、自分は死ぬまで一人で生きていくと思っていたから。
それを―――生きる為に、必死に覆った目に見えない鎧を、男が壊した。

そうして、二人になった瞬間から、いつかまた一人になるかもしれないと言う漠然とした不安が、心の奥底でくすぶっている。
そのことに、高耶自身、まだ気づかずにいた。
(………直江…、)
ふと、無意識に、ブレスレットのない左手首を確かめている己に高耶は気づいた。


(高耶さん………これを)
(なにこれ?……ブレスレット?くれんの?)
(ええ)
(裏になにか彫ってある……英語じゃないよな?何て書いてあるんだ?)
(秘密です。手を出して)
(………。へえ、カッコイイじゃん。サンキュ。………てか、ちょっと待て、直江。これ、どうなってんだ?外れねーぞ!)
(ええ。この鍵がないと外せません。あなたが私のものになった証です。鍵は私が預かっておきますから)
(はああ?!お前何言って………)


―――あの日のやりとりを、高耶は今でも思い出す。
実際、それ以来、高耶はブレスレットをつけたままだったから、左手首にそれがないことに、より違和感を感じるのかもしれない。
だが、それは違和感というより、なにか違う感覚だった。

そこにあるべきものがない。
心地よい戒めが解かれ、無理矢理、一人きりで放り出されたような―――これは、恐怖?

そう思いかけて、高耶は自分自身に呆れ、照れかくしのように苦笑した。
いったい何考えてるんだオレは。


***


その日、日付が変わる頃にようやく男が帰宅すると、高耶はソファに横たわったまま、寝込んでしまっていた。
「………高耶さん、駄目ですよ。こんなところで………風邪をひきます」

フローリングの床に、ビールの空き缶が2本、転がっている。
おまけに灰皿には、吸殻が山になっている。
自分がいないのをいいことに、このひとは………。

(………困ったひとだ)
ため息をついた男は、ふと、投げ出されている高耶の左手首に、ブレスレットがないことに気づいた。

周囲を見回すと、ダイニングテーブルの端に、ブレスレットが置かれている。
外れたということは、金具が壊れてしまったのだろう―――

だが、いまはとにかく高耶をベッドに運ぼうと、手を伸ばしたところで、高耶はうん、と呟いて眠い眼を開けた。

「………帰ったのか」
「すみません。起こしてしまって。でも、こんなところで寝たら風邪をひきます。ベッドに行きましょう」
「うん……」
促されて、ソファから立ち上がろうとした足元がふらつくのを見て、男は改めて、いとしい体を軽々と横抱きにした。
「………ッ、」

普段から、こうして横抱きにされるのを高耶は嫌がる。
男の身で男の腕に、軽々と抱え上げられるのは、どうにも我慢がならないらしい。
不服そうに見つめる眼に、男は悪戯そうに笑う。
「私がいないからって、2本もビールを飲むからです。歩けやしませんよ。大人しく運ばれて下さい」



寝室に移動する間、不貞腐れたように男の腕でじっとしていた高耶は、ふと、思い出したように言った。
「そうだ、直江。ブレスレットが………」
「ええ。金具が壊れてしまったんですね。修理に出しておきます。………それとも、新しいのを買いましょうか。今度は絶対に外れない、頑丈な枷のようなのを。いかがです?」
「………お前なあ」
ベッドに横たえられても、高耶はまだ子供のようにふくれている。

「可愛いひとだ……このまま、襲ってしまいたくなりますよ」
「………ふざけるな。お前、明日も早いんだろうが。いいから風呂入って大人しく寝ろ。変なことしやがったら殺す」
「つれないひとだ」
大仰にため息をつき、それでも覆いかぶさって強引にいとしい唇を奪い、男は言った。

「………すみません。淋しい思いをさせてしまって。もう少ししたら、今の仕事も一段落つきます。そうしたら、休暇をとりますから、どこか旅行にでも行きましょう。どこへでも、あなたの好きなところへ」

男の真摯な声に、高耶は根負けしたように苦笑した。
心の中で呟く。
旅行なんて―――お前がそばにいるなら、オレはどこだってかまわないのに。

「………高耶さん」
ブレスレットの外れた左手首を取って、これが代わりの枷とばかりに男はそっと口づけた。
「愛していますよ」


***


一週間が過ぎ、ようやく週末が訪れた。
翌週分の買い物を済ませ、行きつけのレストランでランチをとり、河川敷を二人で散策する。
楽しそうな高耶の笑顔を見るのが、男はなにより嬉しく思う。
やがて、子犬を連れたカップルとすれ違った時、リードで繋がれた子犬が飼い主の足にじゃれつく様を、足を止め、微笑みながら見ている姿を見て、男は思った。

そうだ―――ペットがいれば………。
このひとは猫が好きなようだから、仔猫をプレゼントしようか。




次の一週間も、男は早朝に家を出、深夜に帰宅する日々だった。
だが、金曜日の夜遅く、ダンボールと大きな荷物をいくつも抱えて帰宅した男を見て、高耶は眼を丸くした。

「………なに?」
ダンボールの中からは、ニャーニャーと、か細い子猫の鳴き声がする。
「猫……?お前、それいったい………」
「プレゼントですよ」

男は微笑して、ダンボールを床に置いた。
高耶が早速、ダンボールの蓋を開けて中を覗き込むと、灰色のなんとも愛らしい仔猫が、白いタオルにくるまり、こちらを見上げて鳴いていた。

「会社の近くのペットショップで見つけました。アメリカンショートヘアという種類だそうです」
「………おいで」
もはや男の言葉も耳に入らず、仔猫に釘付けになっている高耶がそっと両手を伸ばすと、仔猫は抵抗もせずに抱き上げられて、大人しく胸に収まった。

高耶がいとおしげに指先であやしてやると、仔猫は手足を伸ばしてじゃれついてくる。
どうやら、高耶のことを気に入ったらしい。

「こいつ、腹へってないかな。そうだ、ミルク………!」
すると、男は紙袋から、ピンク色の大きな缶を取り上げて高耶に見せた。

「仔猫は牛乳を与えるとおなかを壊すそうなので、とりあえず仔猫用の粉ミルクと、あと、いくつかキャットフードを買ってきました。他に必要なものは、明日、一緒に買いに行きましょう」
「………直江」
「はい?」
「………ありがと、な」



翌日、ショッピングセンターで食材の他、仔猫用の首輪やケージ、キャリーバックなど、必要な品を買いあさり、高耶は嬉しそうだった。

帰宅後、赤い首輪をつけられ、高耶によって『にゃんこ』と名づけられた仔猫は、元気いっぱいで部屋中を飛び回っている。

「あ、こら待てにゃんこ!」
高耶が仔猫とじゃれているさまは、見ていて本当に微笑ましいのだが、男が唯一、不満と言えば、自分をほったらかして、高耶がにゃんこにかかりきりになることだろうか。

遊び疲れた仔猫が、ケージの中で丸くなり、すやすやと寝てしまうと、今度は自分の番だとばかり、男は仔猫の寝顔に見入る高耶を、背後から抱きしめた。
「にゃんこばかりでなく、私の相手もして下さいね」
項に口づけながら、甘く囁く。





めずらしく男が、いつもより早めに帰宅できた日のことだった。
「ただいま戻りました。高耶さん?」
ドアを開けても、出迎えてくれるはずの高耶が、そこにいない。
リビングから、盛んに仔猫の鳴き声がしているが、あのひとはもう眠ってしまったのだろうか。

「高耶さん………?」
リビングに入ると、そこに高耶の姿はなく、小さな体にリードを絡ませて身動きが取れなくなったにゃんこが、ニャーニャー鳴いていた。

どうやらリードにじゃれているうちに、自分自身が絡まってしまったらしい。
なんとも愛くるしい姿に苦笑し、男がリードを解いてやると、にゃんこはリビングの隅の自分の餌皿に一目散に走っていって、ぴちゃぴちゃと水を飲み出した。


男が、リビングを後にして、寝室に向かおうとした時だった。
無意識に時間を確かめようと壁に眼をやって、男はわが眼を疑った。

壁にかけられた時計が、なぜか、梱包用の紐でぐるぐるに巻かれている。
よくよく見れば、掛け時計だけではなく、テレビモニター脇に置かれた置時計にも、紐が巻きつけられていた。
これはいったい………。

「高耶さん………?」
胸騒ぎを覚えた男が、慌てて寝室に駆け込むと、高耶はパジャマ姿でベッドに寝そべって、すやすやと寝入っていた。

ベッドサイドに置かれた目覚まし時計にも、きつく紐が巻きつけられている。

「高耶さん………、」
そっと声をかけると、高耶は眠そうな眼を開け、男の顔を見るなり、ふわっと微笑んだ。
「………直江………」
最愛のその笑顔に、なぜか、ひどく危ういものを感じながらも、男はつくり笑顔を見せる。

「すみません………起こしてしまって」
「ううん。飯は食ってきたんだろ?」
そう答える高耶の方こそ、食事を摂った気配がない。
少しとがって見える顎を見て、このひとは、こんなに痩せていただろうかと、男はますます不安になった。

「あの………高耶さん。その、時計は………あなたが?」
「んん?あー。………なんでもない」
高耶は本当に、気がなさそうに答える。
いったいこのひとは、どうしてしまったのか―――立ち尽くす男に、高耶は呆れたように言った。
「………何つっ立ってんだよ。風呂入ってこいよ。お前、明日も早いんだろ?」

思えば、それが、崩壊の始まりだった。