* undo * mira version 後編




その日を境に、高耶は、部屋にあるものを片端から縛りはじめた。
時計を皮切りに、男が仕事で使うモバイルや鞄―――挙句、その日、買ってきた食材まで。

本人すら無意識のまま、膝に抱いたにゃんこを縛りかけ、仔猫が不満の声をあげた時だけ、高耶は我に帰った。
「………オレ、いったい………」
自分で自分がどうしてしまったのかわからない様子で、戸惑う高耶を、男は抱きしめるしかできない。

高耶を心配した男は、オフィスに家族の急病を伝え、今後の仕事について話しあった。

今、関わっているプロジェクトでは、男は重要なポジションに就いている為、抜けるわけにいかないが、会議や打ち合わせ以外の残業を極力避け、持ち帰ることのできる仕事は、できる限り自宅で進めてもいいよう、半ば強引に許可を取り付けた。

この仕事の目途さえつけば、まとまった休暇が取れる。
どこか二人でゆっくりと旅行にでも行けば、きっとこのひともよくなるに違いないと、男は己に言い聞かせた。





「高耶さん。あと一時間ぐらいで終わりますから……そうしたらお昼にしましょう。久しぶりに外に食べに行きましょうか」

ダイニングテーブルに資料を広げ、ノートPCのキーボードを叩きながら、男は横目で高耶の様子を気遣う。
「………うん………そうだな」
答える高耶の声は、どこか虚ろだ。
傍らのソファに腰掛け、膝にすやすやと眠る仔猫を乗せたまま、ぼんやりと窓の外を眺めている。

高耶の症状は、緩やかだが、悪化しているように思える。
話しかければ答えるし、促せば食事も普通に摂るが、自分からはあまり空腹を訴えることがなくなり、食が細くなった。

同時に、なにか紐のようなものを手にしていないと落ち着かず、男がそれとなく宥めて、そっと紐を取り上げようとすると、たちまち機嫌が悪くなる。
なによりその手は、常に何かを縛るような動作をやめない。




そんな、状態が続いたある日、ついに決定的な事件が起きた。

どうしても抜けられない会議の為、帰宅が遅れた直江が息を切らして自宅ドアを開けるなり、仔猫が飛びついてきた。
仔猫の小さな体を抱き上げ、宥めるように撫でてやりながら、男は高耶の姿を探す。
「高耶さん。今戻りました。遅くなってすみません………高耶さ―――」

リビングのドアを開けた途端、視界に飛び込んできた異様な風景に、男は絶句した。

朝、出かける時はなんともなかったはずの壁に無数の錨が打ち付けられ、ロープが幾重にも張り巡らされている。
その中央で、高耶はぼんやりと立ち尽くしていた。

「た、………高耶、さん………?」
そっと声をかけると、高耶はようやく振り向き、男の顔を見るなりふわっと微笑った。

その笑顔に、ひどく危ういものを感じて、仔猫を床に放し、張り巡らされたロープの合間を縫うようにして駆け寄る。
「高耶さん………あの………これは、あなたが………?」
高耶は再び、ふわりと微笑む。


高耶は、まるでそうしなければ壊れてしまうとでも言うように、大事そうに手にしていたものを、男に向けて差し出した。

それは、出会ってまもない頃、はじめて二人で一緒に撮った写真だった。
肩を並べて映る二人が、赤い縫い糸で縛られている。

「縛ったんだ」
「な、なにをです……、」

呟いた高耶は、菩薩のように微笑んだ。


縛ったんだ―――
オレ達の愛を。


***


ガラス張りの診察室で、椅子に腰掛ける高耶の眼はうつろだった。
その手には、紐の切れ端が握られていて、その指は、見えない何かを縛ろうとしている。


「あのひとは、いったい………どうしてしまったんですか」

隣室で、男とともに、その一挙一動を慎重に観察していたカウンセラーは、神妙な表情を浮かべて言った。

「……高耶さんは、『強迫性緊縛症候群』に罹っていますね」
聞いたことのない病名に、男はたじろいだ。

「なんですそれは。強迫性……?」
「強迫性緊縛症候群。―――いわゆる、愛の病ですよ」
カウンセラーはもう一度、ゆっくりと病名を繰り返し、男はそれを反芻した。

「―――診る限り、症状はかなり深刻です。お話を伺うと、高耶さんは、複雑な家庭に育ったようですから、おそらくそういった影響もあるでしょう。―――これは心の病です。治療には時間がかかります。つらいでしょうが、焦って追いつめてしまわないように」
「………」
自分がついていながら、多忙を理由に、命より大事なこのひとを、こんな病気にしてしまった―――悔やんでも悔やみきれず、カウンセラーが発する言葉を、男は一語一句噛み締めながら、
「どうしたら―――あのひとは、よくなりますか」

「そうですねえ………この病に、薬はありません。できる限り、傍にいて安心させてあげることです。それから………」
カウンセラーは思わせぶりに付け加えた。

「今夜あたり、本人を縛ってあげてはいかがですか。そうすれば、少しは落ち着くでしょう」




帰りがけのタクシーの中、男は通りがかりの店に車を止めさせ、ドライバーに少しの間、高耶を見ていてくれるよう頼み、ロープと鎖と南京錠を大量に買い込んだ。

自宅に戻り、先にシャワー室に入るよう促す。
言われるまま浴室に向かう細い背に、男は言った。
「………高耶さん。シャワーを浴びたら、あとでいいことをしましょう」


***


男は、バスローブを羽織って出てきた高耶に椅子を差し出し、そこに座るよう促した。
「………」
高耶はまるで人形にように、言われるまま、差し出された椅子に腰を下ろす。

まだ水滴の滴っている髪をタオルで丁寧に拭ってやると、男は、先ほど買ってきたばかりの縄を取り上げて、高耶を椅子ごと縛りはじめた。
とはいえ、万が一にも苦しくないよう、気を使う。


―――ふと、形のよい唇が動いた。
高耶が何か言っている。
口元に耳を近づけ、その言葉を聞き取ろうとして、男は愕然とした。
「………ちゃんと、縛れよ」
そう呟く眼は、ひどく虚ろだ。

「………高耶さん……、」
今度は力を入れて、椅子ごと幾重にも細い体にロープを回して、動けないよう縛り付けた。

ロープだけではなく、鎖も取り上げて、手足を縛りつけるが、やはり、手加減しているせいか、高耶は納得しない。
「………ちゃんと……、縛れよ………」
「………高耶さん―――ッ、」
ロープを手にする男の眼に、抑え切れない激情が込み上げ、熱いものが込み上げて頬を伝う。
「高耶さん………ッ、」

男が高耶の前で、初めて見せたその涙にも反応することなく、高耶は虚ろな声で呟き続けた。


***


買い物を済ませ、自宅に戻った男がドアを開けると、物音を聞きつけたにゃんこが待ちかねたように出迎えた。

男が薄く微笑んで、その小さな頭を撫でてやると、仔猫はすぐにリビングに戻っていく。

仔猫の後を追うように、男がリビングに向かうと、高耶はローブ姿で、皮製のチェアにゆったりと腰掛け、目を閉じていた。
その体は、縄と鎖で、がんじがらめに縛られている。

「………高耶さん。ただいま。いい子にしていましたか?」

高耶を医者に連れて行った日から、数ヶ月―――
髪は肩につくほどに伸び、ローブから覗く胸元と、細い手足には、ところどころ縄縛痕による鬱血が痛々しいほどだが、それでも顔をあげたその表情は、まるで夢見るようにおだやかだ。

首筋に触れる大きな手のぬくもりに自ら頬を摺り寄せ、その手のひらに上向かされて、眼を閉じたまま、うっとりと口付けを受けとめていた高耶は、不意に、頬をぽつりと濡らしたものに、怪訝そうに眼を開けた。

「………?」
もはや完全に壊れてしまっている高耶は、それでも男が泣いているのを見て、不思議そうに男の名を呼んだ。
「なおえ………?」
嗚咽を堪え、男は、無理矢理、涙を拭うと笑顔をつくった。

「すみません。なんでもありませんよ」
優しく囁いて、恭しく手足の戒めを解いてやる。
少し細くなったその左手首には、あのブレスレットが光っている。


男は、いとしい体を膝に抱いて、高耶が落ち着くまで抱きしめてやり、子供をあやすように呟いた。

「高耶さん……ご飯を食べたら、一緒にお風呂に入りましょうね………そうしたら、また縛ってあげる」

胸の中でうっとりと眼を閉じている高耶に、男は囁き続ける。

(高耶さん、愛していますよ)
(ばーか。………ンなことわかってるよ)

あの日のあなたが、このまま永遠に戻らなくても。
今ここに、あなたがいる。
かつての高耶の幻影を頭の片隅に追いやって、男はいま確かに腕の中にいる、いとしい体を抱きしめた。



end.

2013.7.23. 417