‡ CONSTANTINE ‡ mira vervion 2
不意にインターフォンが鳴り、たちまち男の表情が険しくなった。
ごく僅かな知人と部下以外には、男の住居は伏せられている。
第一、このビルには、建物全体を覆うように張り巡らせた強力な結界があり、身も知らぬ他人が、容易に入ってこられるはずがないのだが―――直江は、力を研ぎ澄ませ、ドアの外にいる訪問者を慎重に霊査した。
訪問者から発せられるオーラからは、悪意や敵意はまったく感じられない。
それでも、万一の襲撃に備え、力を蓄えたままで慎重にロックを外し、男がドアを開けると、そこには、驚くほど端正な顔立ちの青年が、思い詰めたような表情で立っていた。
応対に出た、黒いスーツ姿の男の鳶色の双眸が、射抜くように見つめる中、高耶は戸惑いながらも、思いきって問いかけた。
「あの―――直江さん……ですか?」
「ええ。あなたは?」
男が、本当に直江と言う名だと知って、高耶は内心、かなり驚いたのだが、それでも、少し安堵したように、
「オレ……××大学の学生で、仰木高耶といいます。突然、お邪魔してしまってすみません。あの……」
「……よく、この場所がわかりましたね」
その言葉に、たちまち、高耶は口ごもった。
死んだ妹が夢に現れ、この住所を示し、『直江』に会うように言われ―――半信半疑で訪れたら、本当に直江と言う男が応対に出た。
この事実を話したところで、はたして信じてもらえるだろうか。
どう説明したものかと考えあぐねているところへ、高耶は室内に招き入れられた。
自宅アパートとは比べものにならない、広大なワンルームだ。
豪華な家具や調度品は無論、高耶が何より眼を奪われたのは、コンクリートの壁一面を埋め尽くしている、圧倒的な数の蔵書だった。
その上、使用方法がまるで見当もつかない不可思議なガラクタの数々―――それらは、どれも男が友人から譲り受けた、非常に貴重なものなのだが、その価値が高耶にわかるはずもなく、つい、彼は好奇心に負けて問いかけてしまった。
「……あの……直江さんは……いったい、どんなお仕事を……?」
すると、男はまた、怪訝そうに、
「……あなたは、私が何をしているかも知らずに、ここへ?」
高耶は、素直に頷いた。
「霊能者だの、拝み屋だのいろいろ言われていますが……探偵、ですよ。死後専門のね」
それを聞いた高耶の表情が変わるのも気にせず、男は自嘲的に笑い、彼にソファを勧め、自身もワークチェアに長い脚を組み、優雅に腰を下ろすと、用件を話すよう促した。
***
「妹が―――死んだんです」
それを告げた際の高耶の表情は、とても痛ましく、男は、彼の端正な顔からそっと眼を逸らし、静かに言った。
「―――それは、お気の毒に」
「一昨日の夜……入院先の精神病棟の屋上から飛び降りて。でも、妹は絶対、自殺なんてするわけがないんです」
「まあ……確かに、精神病者は自殺はしないでしょうね」
何処となく棘の感じられる言葉に、たちまち高耶の表情が曇ったが、男は構わず続けた。
「それで、高耶さんと言いましたか?あなたは、いったい、どうしてここへ?」
高耶は、思いきって告げた。
「……妹が、夢に現れて言ったんです。……ここに来て、直江と言う人に会えと」
男は、複雑な表情で、何かを思案するように、
「……妹さんは、以前から、そうした能力を持っていましたか?」
「いいえ。そんなこと、一度も聞いたこともなかった」
「では、あなたはどうです?」
高耶は首を振り、きっぱりと否定したが、おそらく彼女は、何がしかの力を持っていたに違いないと直江は思った。
無論、ビル中に張り巡らせた結界をやすやすと破って、自分の元を訪れた彼自身も。
でなければ、夢で死者からメッセージを受け取ったとしても、ここまでやってこられるはずがない。
そのことを、どうやら、このひとは、まったく気づいていないようだが。
「妹は……この一ヶ月ほど、人が変わったように、何かに怯えていたそうです。それまで口にしたことのなかった、死後の世界とか、地獄がどうとか言い出して……それで、とうとう病院に……」
何も言おうとしない男に、高耶は尚も告げた。
「勝手に押しかけて、こんなこと言って……迷惑なのはわかってます。でも、あいつは、絶対に自殺なんかする奴じゃなかった。明るくて、誰にでも好かれて……もしかしたら、何か占いとか、悪い宗教なんかに誘われて、洗脳されたんじゃないかって」
「なるほど。最もらしい仮説ですね。それで、私にどうしろと?」
男の言葉は、何処までも冷たい。
高耶は、だんだんと怒りを覚えてくるのを堪えて、
「オレは妹の死の真相を知りたいんです。妹は夢で、あんたに会うよう、伝えてきた。直江さん……あなたは、その道のプロなんでしょう?何か……ヒントでも、なんでもいいんだ。もし、心当たりがあるなら、教えてほしい」
彼の心が、男には手に取るようにわかった。
突然の家族の死を受け入れられず、何か行動を起こさなくては、いてもたってもいられないのだろう。
自殺と言う行為が、本人だけでなく、その家族にも、どれほどの苦しみをもたらすか、自らも自殺未遂者である男は、痛いほど理解している。
だが―――このまま、彼女の死にこだわり続ければ、今度は、彼自身が地獄の連中に眼をつけられかねない。
奴らは、一人でも多くの人間を招き入れる為に、手をこまねいているのだから。
男は、わざと突き放すように、
「残念ですが……妹さんがご存命なら、手を貸すこともできたかもしれませんが、お話を聞く限り、現時点で、私にしてさしあげられることは、何もありません。あなたにも、どうしてあげることもできないでしょう。わかっているのは―――」
男は自嘲するような吐息をつき、
「自殺者の魂は、どのような理由があろうとも例外なく地獄へ落ち、それを救う手だてはない、と言うことだけです―――もし、妹さんが本当に自殺だったなら、大変、お気の毒ですが……今頃、地獄で永遠の苦しみを味わっていることでしょう」
それは、皮肉でも嫌味でもなく、己の行く末を知っている男の口から、自虐的に吐き出された言葉だったのだが―――それを聞いた高耶の眦が上がった。
怒りに顔を赤くして立ちあがった高耶の眼が、デスクの端に伏せられているグラスを捕える。
紫煙の檻に囚われた蜘蛛を確かめるや否や、彼は吐き捨てるように言った。
「あんたは―――最低だ」
刹那、触れてもいないのに、グラスが突然、弾けた。
男が、驚きに眼を見張る。
この出来事に、狼狽したのは誰よりも高耶自身だったが、それでも、彼はその漆黒の双眸できつく男を見据えると、痛烈な一言を見舞った。
「わかったよ―――直江さん。あんたは、自分が、地獄とやらに堕ちるのが怖いんだな?」
言い当てられ、冷静を装っていた男の仮面が一瞬、剥がれ落ちた。
(このひとは―――)
もはや男を振り返ることもなく、高耶は大股で部屋を出ていく。
彼によって、再び自由を得た子蜘蛛は、たちまち、何処かへ逃げていった。
***
勢いよく、閉められるドア。
足音が、どんどん、遠ざかっていく。
本来、男は、こんな風に、平気で人を傷つけるような人間ではないのだが、この日の彼はいつにも増して、心身ともに疲弊しきっていて、相手を思いやる余裕がなかった。
家族を無くし、ただでさえショックを受けている少年に、酷いことを。
本当に、この男は、地獄行きが相応しい最低の人間だ。
追いかけて、今すぐ謝罪を―――すべきことがわかっているのに、直江はしばらくの間、動くことができなかった。
その時、結界に守られた窓の外を、いやらしい羽音とともに、何かがサッと横切った。
それも、一体やニ体ではない。この気配では、おそらく数十体はいる。
無論、直江は、その正体を嫌というほど知っていた。
地獄の住人―――屍鬼だ。
嬉々として去っていく連中の狙いは自分ではない―――意図を悟って、男の顔色が青ざめる。
仰木高耶―――まさか、あのひとを?
(いけない!)
直江は弾かれたように立ちあがり、デスクから魔除けのライターを取り上げるや否や、大急ぎで後を追った。
***
男の部屋を後にした高耶は、怒り心頭に達していた。
そのせいか、周辺に生じはじめている異変に、まったく気づかない。
一発、殴ってくるべきだった。
あの男は最低だ。
何故、美弥は、あんな男に会えと言ったのだろう。
「高耶―――高耶さん!待って下さい!」
後を追ってビルを出るなり、遠ざかる背に男は大声を張り上げたが、高耶は聞こえない振りをしているのか、構わず行ってしまう。
肺を患って以来、これほど全速力で走ったことはない。
直江は必死に後を追い、ぜいぜいと苦しげに息を切らしながら、ようやくその腕を掴むことができた。
「待って下さい……私は……走れるような体調ではないんです……どうか、駆けっこは、勘弁して下さいませんか」
途切れ途切れの苦しい言葉に、高耶は冷たく言い放つ。
「地獄へ落ちろ」
吐き捨てる高耶に、男は力なく微笑んだ。
「それなら確実ですから、安心して下さい。私はもう……長くはないんです」
嘘ではないことが、一目でわかるほど青ざめ、自虐的に微笑む男の横顔を見遣って、高耶はようやく歩調を緩めた。
男は、苦しい呼吸を整えつつ、高耶と肩を並べて歩きながら、真摯に頭を下げる。
「さっきは酷いことを言ってしまいました―――許して下さい。それより、私の側から離れないで」
有無を言わせず、男が細い体を傍らへと引き寄せた時、昼とは思えないほど、辺りが一気に暗くなった。
次いで、どこからともなくたち込める、白い煙、強烈な異臭―――このにおいは、硫黄だろうか。
「なっ……」
突然の出来事に、青ざめる高耶の腕を引いて、男は、歩道から、通りがかりのとあるビルのショーウィンドーの軒先に身を潜めた。
「心配しないで」
男が、高耶を背後に庇いながら、安心させるように囁く。
ビルを背に、自分達が、得体の知れない何かに完全に取り囲まれてしまったことが、その気配で嫌でもわかった。
「眼を瞑っていて下さい」
男が言った。
「あなたは、見ないほうがいい」
わけがわからないが、それでも、お前のいいなりに誰がなるかと言わんばかりに、高耶がきっと男を見据える。
「しょうがないひとですね……」
ならば勝手にしなさいとばかりに、男がジャケットから取り出した何かの切れ端にライターで火をつける。
すると、たちまち音を立てて燃えあがっそれが、驚くほどの光を放ったので、高耶はたまらず悲鳴を上げて眼を覆った。
ヒー、ともキーとも言えない、背筋の凍るような悲鳴が響く。
怖気をふるった高耶がたまらず、薄眼を開けると、見たことのない翼を生やした異形の生物が、数体、ぼろ切れから燃え移った深紅の業火に焼かれて、のた打ち回っていた。
ありえないものを見た恐怖とショックで声も出ない高耶を、背後にしっかりと庇いながら、男は魔除けの印を結び、タントラを唱える。
勝負は、一瞬だった。
***
嘘のように、周囲は元の明るさを取り戻していた。
ただ、吐き気を催すほどの硫黄のにおいが、いまのが現実だと言うことを高耶に告げていた。
青ざめたまま、凍り付いている高耶を心配して、男が端正な顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「……いまのは、何なんだ……?」
「屍鬼です。わかりやすい言葉で言うなら、悪魔……でしょうね。あなたも、その眼で見た通り、この世のものじゃあない。奴らは俺に見向きもしなかった……どうやら、狙いはあなたのようだ」
「オレを?いったい、なんでっ……」
実際は、男には暗い予感があったのだが、遭えてそれは口にはせずに、
「さあ、それは、まだ……調べてみないとわかりません。それより、連中が、あっさりとこちら側に来られるはずは―――」
考えた末、男は改めて問いかけた。
「―――自殺じゃないと言うのは、確かなんですね?」
高耶は、力強く頷く。
「ならば、確かめてみましょう。彼女が、地獄にいるかどうか」
男はきっぱりと告げた。
高耶は驚いたように、傍らの黒服の男を見つめる。
「……どうやって……?」