‡ CONSTANTINE ‡ mira vervion 3
高耶の部屋は、男の自宅から車で一時間ほど走った郊外にあった。
彼が通う大学にほど近い、ごく普通の二階建アパートである。
駅から遠く不便な分、家賃が安いのだと、少し照れくさそうに言いながら、高耶がドアを開けると、灰色の小さな仔猫が待ちくたびれたように甘えた声でニャ−ニャ−鳴きながら飛びついてきた。
「こらっ。にゃんこ!静かにしろって。隣に聞かれたらヤバイだろーが」
どうやら、このアパートはペット禁止らしい。
「シーッ」と言いながら、高耶は諌める素振りを見せるが、全身で甘えてくる仔猫を抱き上げるその表情は優しく、その姿に、つられるように、男は微笑んだ。
「……あなたの帰りを待ちわびていたようですね。あなたを信頼しきって、とても懐いている。『にゃんこ』と言うのは、その猫の名前ですか」
「捨てられて、動けなくなってるのを保護したんだ。本当は、大家が近所にいるし、バレたらまずいんだけど……他に飼ってくれる奴も見つかんねーし、こんなチビ、放りだすわけにいかないだろ」
その言葉に、男はまた微笑む。
「な……何だよっ」
「いえ。……あなたは、優しいひとですね」
部屋に通されると、男はものめずらしげに室内を見回した。
何しろ、現役大学生の家に招かれる機会など、滅多にない。
キッチンと部屋を仕切るドアを挟んで、六畳の和室には、机と本棚、テレビ台を兼ねたボックス家具が並んでいる。
いかにも、学生の一人住まいと言った風情だ。
デスクの上に、作成中のレポートと六法全書が無雑作に積み上げられているのを見て、男は少し以外に思った。
「高耶さんは専攻は、法学部、ですか?」
腹をすかせた仔猫にせっつかれるように、キャットフードの缶詰を開けながら、高耶は、少し怒ったような顔で振りかえった。
「……オレが法学部だったら、そんなに以外かよ」
「いえ。凄いなと思いまして」
高耶が差し出したミルクとキャットフードに、夢中になっている仔猫。
その仔猫を見守る高耶の傍らで、男は、それまでの人生で感じたことのないほど安らいだ、穏やかな気持になっていた。
無論、のどかな会話をしに、ここに来たわけではない。
分かっているが、それでも、もう少しだけ、このひとと、こうしていられたら―――高耶と言う青年は、不思議と男に、そんな幻想を抱かせた。
今更、怖気づいても仕方あるまい―――自嘲するが、一瞬でも、地獄を見てきたからこそ、あの世界がどれほど恐ろしい場所か、男は知っている。
そこへ、今から再び赴こうとしているのだから、恐ろしくないわけがないのだ。
だが、男は覚悟を決めて、ユニットバスに水を張るよう頼むと、高耶に妹の写真を見せてくれるよう頼んだ。
「できれば、最近のものを」
高耶は黙って言われるまま浴槽に水を張り、デスクの抽斗から、一枚の写真を取り出して男に見せた。
印画紙の中で、高校の制服らしい、紺色のブレザースカートに長い髪を束ねた、愛らしい顔立ちの少女が、少しはにかんだように笑いかけている。
男は微笑んで、
「とても可愛いらしいお嬢さんですね。妹さんのお名前は?」
「……美弥」
「―――入院していた病院の名前はわかりますか?」
「仙台の……××総合病院」
「ありがとうございます。それだけ教えて頂ければ十分です」
バスルームへ向かう男の後を、無論、高耶も追う。
男は、玄関から自分の靴を取り上げると、底についた汚れを払い、許しを得た上で土足になった。
裸足で地獄の土を踏むのだけは、勘弁だ。
着衣に土足でバスルームに入ろうとする背に、高耶は、たまらず問いかけた。
「……何をするんだ?その水は、いったい何の為に?」
「水を使うのがいちばん、手っ取り早いんです」
男は詳しい説明を避け、更に、にゃんこを貸してほしい、と言った。
意図がまったくわからず、怪訝な顔をする高耶に、男はいいわけめいた笑を浮かべる。
「心配しないで下さい。にゃんこを、どうかしようと言うわけではありませんから。ただ少し、力を借りるだけです」
ますます、いぶかる高耶をよそに、当の仔猫がバスルームに飛び跳ねるようにして入ってくる。
「すみません……にゃんこと二人だけの方が仕事がしやすいので……部屋の方で待っていてもらえますか?すぐに済みますから」
高耶は、男と仔猫を交互に見た。どうしたものか、と思案しているようだ。
「お願いします。私を……信じて下さい」
真摯なその言葉に、やがて、高耶はわかった、と言うように頷き、ドアノブに手をかけた。
高耶がドアの向こうに姿を消すと、仔猫は自分のすべきことはわかっていると言わんばかりに、男を見上げた。
男は微笑んで、仔猫を抱き上げると、浴槽脇の洗面台に、そっと下ろした。
直江が自宅ではなく、高耶の部屋で美弥との接触を試みようとしたのは、その方が、彼女とコンタクトしやすいだろうと考えたからだが、彼が猫を飼っていたのは幸いだった。
猫の眼は、異世界の扉を開く波長を探す、アンテナの役割を果たしてくれる。
このコンタクトが、残り少ない寿命を更に縮める結果になるのは確実だったが、人生の最後の最後に、誰かの役に立てるかもしれないなら、悪くはない。
仰木高耶と言う存在が、すでに自分の中で、特別なものになりかけていることに気づかないまま、男は意を決して、冷水の張られたバスタブに足を踏み入れた。
仔猫の眼と、着衣のまま、浴槽に腰を下ろした男の鳶色の眼がかち合う。
男は、己の持つ力と、全神経を集中させて、金色に光る眼の中に、目的の扉を開く波長を探し求めた。
異世界へコンタクトする扉はそこかしこにあり、ひとが気付かないだけで、それらは常に開かれている。
やがて、男の意識が、探し求める波長を捕えた。
―――見つけた。
水が、少しづつ沸き立って、白い煙を上げ始める。
鼻をつく、硫黄のにおい……ぐらりと視界が歪み、たまらず目を閉じた男が、再び、その眼を開けた時、世界は、一変していた。
***
琥珀色の業火に焼き尽くされ、廃墟と化した市街地の中央に、男が立っている。
そこは、地獄と化した仙台の街だ。
強烈な異臭の中、炎上する無数の車や、瓦礫の脇を摺り抜けるようにして、男は走り出した。
(××総合病院)
高耶の妹が入院していたと言う、その名を思い浮かべるだけで、進むべき方向がわかる。
早速、男の侵入を嗅ぎ付けた屍鬼達が、わらわらと追ってきたが、男は手馴れた様子で魔除けの印を結び、今にも食いつかんとする追っ手を撒いて、目的の病院に辿りつくことに成功した。
例外なく廃墟と化している無人の病院の中に、息を切らして駆け込み、迷うことなく彼女が飛び降りたと言う、屋上を目指す。
どうか、この場所にいないでほしい―――あのひとの為にも、いないでくれ。
だが、男の願いはあっけなく打ち砕かれた。
歪んだドアを抉じ開けるようにして、広大な屋上に降り立つと、病棟の建物のヘリに、白い治療着姿の少女が立っている。
「―――美弥さん!」
男が叫ぶと、少女はゆっくりと振り向いた。
愛らしいその顔が、涙に濡れている。
彼女は、男にだけ聞こえる声で、お兄ちゃんを守って、と呟くと、自ら、赤く焼け爛れた焦土に向かってダイブした。
「―――!」
数秒後、再び、少女の姿が建物のヘリに蜃気楼のように現れた。
痛ましさに、直江はたまらず、眼を背ける。
肉体は失われ、すでに魂だけの存在なのに、彼女はこの場所で、永遠に罰を受けなければならないのだ。
その姿は、自らも自殺者である男の行く末、そのままだった。
いつのまにか、屍鬼達が、男の周囲を取り囲んでいた。
この中の何体かは、男が現世から送り返した悪霊どものなれの果てだ。
思いがけず、自らこちら側へ飛び込んできた男に向かって、嬉々として今にも襲いかかろうとしている。
その時、再び、少女の囁くような声が響いた。
(お兄ちゃんを守って……)
その声に、男は閉じていた眼を開けた。
(高耶さん……!)
少女の手首から、白いリボンのようなものが外れて宙に舞う。
直江は伸ばした片手でそれを掴み、もう片手で、元の世界に戻るべく、印を結び、タントラを唱えた。
今にも、屍鬼の無数の手が、男を捕らえようとしたその瞬間、閃光が迸った。