‡ CONSTANTINE ‡  mira vervion 1







高級車の助手席で、黒いスーツ姿の男が、静かに眼を閉じている。

高速を降り、依頼のあった××市内に入ったところで、代わりに運転を言いつけられていた若い男が、声をかけた。
「……あのー、旦那。そろそろ着きますけど……」

男は、眼を閉じたまま、こちらも見ずに言った。
「わかっている。いいから黙って……」
運転しろ、と言いかけた言葉が、不意に途切れる。

黒服の男は、上着の胸ポケットから取り出したハンカチで口元を覆い、苦しげに咳込んだ。

運転席の男は、ハンドルを握りながら、咳込む男を心配そうに横目で見つつ、
「旦那ー、ちゃんと医者行ってます?」
「……煩い奴だな」

ようやく咳の発作が収まった男の機嫌は、すこぶる悪い。
最も、この若い男は、どれほど横柄に扱われても、まったく気にはならないらしく、男はそれ以上、何か言うのをやめて、車窓を見遣った。



男の名は、直江信綱。
生まれつき授かった、本人にとっては、ありがたくはないその能力を駆使して、超常現象専門のエージェントとして活動している。

このところ、原因不明のビル倒壊やポルターガイスト現象、霊がひとに憑依すると言った、通常では考えられない事件が多発していて、幸か不幸か、それなりに実績が認められている男の商売は順調だった。

その直江をストーカーばりに追いまわした挙句、まんまと助手の座に収まってしまった若い男は、一蔵と呼ばれている。
男の力には遠く及ばないものの、彼もれっきとした霊能者のはしくれだ。

「そうだ、旦那。いいものあげますよ」
片手でハンドルを握りつつ、もう片手でジャケットから何かを取り出すと、一蔵は得意げに笑った。

直江は、黙って受け取ったそれを確かめ……男にしてはめずらしく苦笑した。
―――ヴィックスドロップ・オレンジ味。


***


依頼のあった家族が住むマンションに、二人が到着した時は、他の部屋の住人や、異変を嗅ぎつけた野次馬が建物の外に集まって、大騒ぎになっていた。

問題の部屋は、確かめずとも、すぐにわかった。
六階建マンションの最上階の角部屋。全開にされた窓から、身の毛もよだつような叫び声が聞こえてくる。

さっさと車を降りた直江の後を、慌てて追いかける一蔵に、男はくるりと振り向いて、冷たく言い放った。

「お前はここに残って野次馬の整理だ。特に、あの部屋の窓の下に、誰も来ないよう見張っていろ。いいな」

留守番を言渡された一蔵は、たちまち泣き顔になって、
「そんなー!ここまで来てお預けはあんまりですよぅ、旦那ァ!」
だが、泣き落としが通じる相手ではない。

直江は、わめく自称・アシスタントを置き去りにして、すたすたとマンション内に入っていってしまった。




エレベータで最上階に上がり、フロアに降り立った途端、ぞっとするような叫びが耳に飛び込んでくる。
到着を待ちわびていたのだろう、半ばパニック状態の中年女性が、男を見るなり駆け寄ってきた。

「直江さん!こっちです、早く来て下さい!」
男は、表情も変えずに、
「電話でお願いしましたが、鏡は用意して頂けましたね?」
女性は泣きながら頷いた。
「それなら大丈夫。心配はいりませんよ。すぐに済みます」




問題の部屋のドアを開けると、絶叫は更に凄まじいものになった。
まだ高1だと言う少女が、父親と、身内と思しき男性数人がかりでベッドに押さえつけられている。

彼女は、部屋に入ってきた黒服の男を認めるや否や、野太い男の声であらん限りの罵声を浴びせかけ、押さえつける腕から逃れようと猛烈に暴れた。

「この体は誰にも渡さぬ」
「……いかにもな台詞ですね」
そう言って、男は苦笑する。
が、すぐに真顔になって、馴れた様子で印を結ぶと、少女に憑依している霊の力を封じるべく、複雑なマントラを唱えはじめた。

たちまち、少女の体が、見えない力によってベッドに縫いつけられる。
「私が代わります。今のうちに皆さんは鏡を」

家人に代わって、直江が、少女の抵抗を封じている間に、隣室から、彼女の全身が映るほどの大きな鏡が運び込まれる。

男達は、直江に命じられるまま、数人がかりで重い鏡を少女の体を平行になるように持ち上げて、ベッドの上に翳した。

「眼を瞑っていて下さい。私がいいと言うまで、絶対に見てはいけません」
鏡を支える男達に、そうきつく言い放ち、直江は新たなマントラを唱えた。だが、手に入れた肉体を奪われまいとする、霊の抵抗は凄まじい。

室内にある物が、触れてもいないのに、勝手に室内を乱れ飛ぶ。
棚から滑り落ちた本が、鏡を支える家人を直撃し、彼らは皆、痛みや恐怖でたまらず眼を開けかけたので、直江は、声を張り上げて全員を叱咤した。
「見てはいけない、見るな!」

やがて鏡は少女ではなく、彼女にとり付いている醜悪な霊の本性を、はっきりと映し出した。

鏡に囚われた霊は、そこから抜け出ようと死に物狂いでもがき、醜悪な腕が、鏡面から突き出て、直江の首を今にも締めあげようとする。

少女が、真上に翳されている鏡に映る霊の姿を見ないよう、その両眼を手のひらで覆って、直江が叫んだ。
「今です。早く!」

合図とともに、男達が、全開の窓の外に向けて、思いきり鏡を投げ捨てる。
一瞬後、戸外に派手な物音が響き渡り、捕縛された霊は、コンクリートに打ちつけられた鏡もろとも粉々に砕けて消え去った。


男がこの部屋を訪れて、まだ十分と経っていない。
あまりにあっけない幕切れ。
「―――終わりました。もう、眼を開けて頂いて結構です」


それまでの狂乱が嘘のように、本来の姿に戻った娘と母親が抱き合って号泣し、その傍らで、男達は、たった今、体験したにも関わらず、信じがたい現実にどう対処していいのかわからず、いまだに茫然としている。

「あ、あの……直江さん……」
おろおろと話しかける父親に、男は何事もなかったように告げた。

「娘さんは、もう心配いりません。外に飛び散っている鏡の破片は、すみませんがそちらで処分をお願いします。それでは、私は、次の依頼がありますので」





言いつけられた通り、野次馬を追い払い、全開の窓を見上げては、一人むくれていた一蔵は、突然、巨大な鏡が降ってくるのを見るや否や、悲鳴を上げて飛び退った。

ガッシャーン!
体を掠めるようにして、一際、大きな音を立てて、霊もろとも砕け散る鏡の残骸。

直江と言う男が、時折、無茶をやることはわかっていたが、今回も無茶苦茶である。
あやうく下敷きになりかけた一蔵は、半ベソで呟いた。
「冗談きついっスよ……旦那ァ」


***


ひとに、見えないものが見える。
物心ついた頃から、その現実は、常に男についてまわった。

母親に手をひかれ、買い物に出た帰り道、すれ違う若い女の眼が、赤く燃えている。
幼い男に向けて、いやらしく舌なめずりしてみせる女の、ぽっかり開いた赤い眼窩―――

恐怖のあまり、火がついたように泣き出す我が子を、母親はおろおろと抱きしめ、宥めるものの、無論、何が起きたかはわからない。



来る日も来る日も、異形の者は、前触れなく現れては男を苦しめた。
通い慣れた公園のベンチ、ファミリー・レストランの駐車場―――彼らに遭遇する度に、怯えきって泣き叫ぶ我が子。

心配した母親は、男をありとあらゆる医者に見せたが、幼い語彙では、眼に見える異変を伝えきれるはずもなく―――いつしか男は、誰に教えられるわけでもなく、生きていく術を己の手で見出していた。


見て見ぬふりをする―――男がひととしての自我を保ち、この世界で生きていくには、その選択しかなかった。
だが、運命は男を捕えて離さない。




常に付き纏う異形の影。
風変わりな子供だと言われ続けた自分を、二人の兄と変わりなく愛情を注いでくれる両親に、いらぬ心配をかけぬよう、異変に遭遇しても目を瞑り、何事もないよう振舞い続けてきたが、中学に上がる頃には、心身ともに疲弊しきった男の精神は、もはや耐えられなくなっていた。

日々、募る、死への願望。
死ねば、楽になれるだろうか。



十四才になったその日の夜、遂に直江は、自らその手首をかき切った。
それまでの苦しみに比べたら、ナイフが肉を裂く一瞬の痛みなど比ではなかった。

迷いもなく、切り開かれた左手首から、深紅の液体が溢れて床に広がっていく様を、虚ろな眼で見守りながらも、男の心は安らかだった。
これでやっと楽になれる。

肉体を離れた男の魂は、穏やかな光に包まれ、天上へと昇っていく。長かった悪夢が、ようやく終わる―――そう思った時だった。

不意に、世界が一変した。楽園の頂上から、まっさかさまに堕ちていくような感覚に、凄まじい恐怖を覚えて、男は絶叫した。

安堵させ、楽になれると見せかけて、いっきに奈落へと突き落とす。
それは、悪魔が使う、常套手段だった。

自ら死を選んだ者は、その瞬間、神の加護を失くし、地獄へ堕ちる。
例え―――どんな理由があろうとも。



吐き気がするほどの硫黄のにおい。十四年間、住み慣れた町並みが、琥珀色の業火に燃えている。
その底で、醜悪な口を開け、堕ちてくる男を待ち構えている無数の屍鬼達―――
「ウアアアア―――!」


***


悲鳴を上げて飛び起きた時、男は救急病院の処置室にいた。
医師の手で、両胸に押し当てられた細動除去機の電圧が、彼を地獄からこの世界へと引き戻したのだった。

大量の血液を失いながらも、完全にパニック状態に陥っている男を、医師と看護士、数人がかりで宥めながら、再び、診察台に寝かしつける。

「助かったんだよ。もう大丈夫……何も心配しないで、ゆっくり、休みなさい」
力づけるように声をかける若い医師。

男が呼吸を停止していたのは、二分にも満たない僅かな時間だったが、その時、男は確かにその眼で地獄を見た。


***


「―――!」
繰り返し見た悪夢の果てに、直江はハッと眼を覚ました。
閉め切られた窓にきつくひかれたカーテンの、ごく僅かな切れ間から、午後の日差しが差し込んでいる。
汗でべったりとはりついたシャツ―――目覚めは、最悪だった。


昨日は朝から一日中、悪霊退治に奔走し、戻ってきたのは明け方だった。
一蔵に運転させて、どうにか家まで辿り着いたところまでは覚えているものの、その先の記憶がなく、ベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまったらしい。

左手首のロレックスに眼をやると、すでに正午を回っている。
日々、衰弱が激しくなってきている―――その現実を、嫌でも認めないわけにはいかなかった。


本来、死は、誰もが恐れるほどには、悪いものではない。
肉体を離れた魂は、天国と称される、安らかな場所に迎えられ、すべての記憶を消去されて、新たな命となってこの世に再生する。
だが、自殺者を待ち受けているのは、永遠に続く苦しみだけだ。

直江は、己が侵した過ちを悟ったが、もはやどうにもならない。
あの日、垣間見てきた地獄が、己の行き先だと悟った男のその後の人生は、惨憺たるものだった。


狂ってしまえたらどれほど楽か。
そう思っても、一度過ちを侵した人間には、発狂する自由すら許されないらしく、その後の男の生活は、自暴自棄を極めた。
己の体を虐めるかのように、きつい煙草を吸い続けて十余年。今年、二十九になった男の肺には悪性腫瘍が棲みつき、じわじわとその肉体を蝕み続けている。

不意に尋常ではない息苦しさを感じ、ベッドから転がるように、バスルームに駆け込むや否や、男は激しく咳込んで、白い陶製のシンクに鮮血を吐き出した。

蛇口を捻り、水と混ざった紅い血が、緩やかな円を描いて流れていくのを虚ろな眼で見守って、のろのろと顔を上げると、ひび割れた鏡に映る己の顔が、一層やつれて見える。

医師からは、余命数年と宣告されていたが、この調子ではあと一年持てばいい方だろう。




シャワーを浴び、濡れた髪を整え、黒いオーダーメイドスーツをきつく着込むと、気休め程度だが気分が落ち着く。

車は無論、腕時計、スーツ、一夜の遊び相手に至るまで、高級嗜好は心身ともに荒みきった男の気を紛らわす、数少ない趣味のひとつだ。

上背が190cm近くあり、引き締まった体躯にモデル並のマスクを備えた男は、そうしいる限り、とても半分死にかけている重病人には見えない。

ワークチェアに腰を下ろすと、デスクに置き放しになっていた、赤ワインのボトルが眼につく。
直江は抽斗から取り出した抗癌剤のカプセルを、すっかり酸化してしまっている不味いそれで、無造作に流し込んだ。

魔除けの印を刻んだプラチナ製の愛用ライターを指先で弄び、未開封のパーラメントに手を伸ばす。

衰弱している体には、酒も煙草も、残り少ない命を削る劇薬に他ならなかったが、今の男には、何がどうでも構わなかった。

ビニールを破って取り出した煙草を、一本銜え、火をつける。
すると、デスクの端を這う小さな蜘蛛が眼につき、男は、空のグラスに紫煙を吐き出し、逃げようとする子蜘蛛の上にグラスを被せて、呟いた。

「ようこそ。我が人生へ」