「暗殺者・幕間」



BY 椎名


 

酒に溺れる父親との生活に愛想が尽きたのか、高耶達兄妹を残して、母親が家を出ていってから数年。高耶が中学二年になっても、父親のアルコール中毒は一向によくはならなかった。


当然、定職に就くこともできず、朝から浴びるように酒を飲み、高耶がそれをいさめようものなら、相手が子供であろうと見境なく暴力を振るう。
時折、市の民生委員が自宅を訪れ、高耶達を気遣ってはいたものの、かつて母親に捨てられた事実や、立ち直る気配のない父親への怒りが、大人全体への不信となっていたのだろう、高耶は容易に心を開こうとはしなかった。

やり場のない憤りを吐き出すかのように、一時期は荒れて、シンナー遊びや喧嘩で警察の世話になることもしばしばだったが、父親の暴力が妹にまで及ぶようになると、高耶は一転して態度を改め、かつてつきあいのあった悪い仲間とも距離を置くようになった。
しっかりしなければならないと思った。
妹を守ってやれるのは、自分しかいないのだから。



酒乱の父親と妹ができるだけ自宅で二人きりにならないよう、登下校時刻を合わせるなど、気を使っていた高耶だが、この日は帰宅途中に、運悪く高校生数人と目が合った合わないで云い争いになってしまった。

朝っぱらから正体をなくすほど飲んだくれていた父親と口論の末に殴られ、むしゃくしゃしていたのがいけなかったのか、先に手が出てしまったのは高耶の方だった。
だが、いくら高耶が腕に多少の自信があっても、年上で、体格も一回りも違う高校生数人が相手では到底、かなうはずもない。
人気のない路地裏に連れ込まれ、文字通りボコボコにされて、罵声を浴びせられた末、彼らが立ち去った後も、しばらく高耶はその場から動けずにいた。



(……ってえ)
殴られ、蹴られた胸や腹や背が悲鳴を上げている。
この感じだと、肋骨の一本や二本、折れているかもしれない。
それでも、痛みを堪えてようやく立ちあがった高耶は、鮮血の混ざった唾液を吐き捨て、泥塗れの学生服をはたくと、自嘲するような笑を浮かべた。
もう、つまらない喧嘩はしないと決めたばかりだというのに──我ながら情けない。
(ざまあねえな……)
鏡を見ていないが、おそらく酷い顔をしているに違いない。これではまた、妹によけいな心配をかけてしまう。
(美弥)


そこで、ようやく高耶はハッと我に帰った。
先に学校が終わる妹が、自分を待っていることを思い出したのだ。
酒乱の父親と二人きりにしない為に、いつも妹には、学校が終わったら、自宅近くの公園で自分を待つように云っている。
だが、痛む体をおして待ち合わせの公園に向かっても、待ち合わせた公園に、すでに妹の姿はなかった。


(あいつ……待ってろって云ったのに……)
とはいえ、つまらない喧嘩で遅くなってしまった自分が悪い。
もしかしたら、いつもより帰りの遅い自分を心配して、どこかに探しに行ったのかもしれない。
何故かわからないが、不意に嫌な予感にかられて、高耶は自宅に急いだ。



ドアには、鍵がかかっていなかった。
「美弥!いるのか?」
玄関には、妹のお気に入りの白いスニーカーがきちんと揃えられている。どうやら待ちくたびれて先に帰宅したらしい。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、異様に静まりかえった室内に、不吉なものを感じる。

「……美弥?いるんだろ。美弥。……オヤジ?」
胸騒ぎにかられ、高耶が急いでダイニングキッチンへの扉を開けた途端、吐き気のするようなアルコール臭が鼻をついた。
そして、テーブルの向こうに力無く投げ出されている、白く細い脚。


にわかには信じられない光景に、一瞬、思考が停止しかけ──我に帰って駆け寄った高耶が見たのは、虚ろな眼を見開いたまま、ぐったりと体を投げ出して、事切れている妹の姿だった。
乱れた着衣、細い首のまわりにくっきりと残る紫色の痣。
彼女が既に息をしていないことは、確かめずとも明らかだった。

そして───その傍らで、無数の酒の空き瓶に埋もれるように、だらしなく座り込んでいる父親。高耶は一瞬にして、何が起きたかを悟った。
「……てめえッ!美弥──美弥をよくも……ッ!」
全身の血が逆流し、視界が血の色で真赤に染まる。相手が父親だろうと……いや、だからこそ、許せなかった。
(殺してやる──!)
十四歳の高耶が、他人に対して生まれてはじめて抱いた、純粋な殺意。

ぶつぶつと何か呟いていた父親が、ふらりと立ち上がる。
その手には、いつしか包丁が握られていた。
「やっちまった。もう、駄目だ───な、高耶。一緒に死んでくれ。もう、死ぬしかないんだよ……」
「……畜生ッ……!」
刺されるのを覚悟で猛然と殴りかかった高耶の体に、刃が突き立てられることはなかった。
中学生とはいえ、渾身の力で、無抵抗で殴りかかられた父親の体は、激しく壁に打ちつけられ、アルコールで覚束ない父親の体が倒れた先には、運悪く石油ストーブがあった。



「───!」
倒れたストーブから漏れ出した石油を被った上に、おそらく、着ていた衣服が燃えやすい繊維のものだったのだろう。高耶の目の前で一瞬のうちに、父親の体が炎に包まれた。
悲鳴をあげてのたうちまわる父親。
「オヤジ……ッ!」
殺してやる。そう思ったものの、予想もしていなかった事態に、驚いた高耶が叫んでも、火のまわりはあまりにも早く、どうすることもできない。
はっきりと聞き取ることはできなかったけれど、炎に包まれた父親の最後の言葉はこんな風に聞こえた。

──ユルシテクレ。

それから数分後。
異変を知って駆けつけた隣人が見たのは、燃え盛る室内でぼろぼろに殴られた姿で、茫然と立ち尽くしている高耶の姿だった。その傍らには、黒く燃え尽きた大小の遺体と、空になった灯油のポリタンクが転がっていた。
すぐに消防車が到着したものの、古い木造の自宅はあっけなく全焼し、高耶は警察によって保護された。




以前から、喧嘩や万引きやシンナーで、数回の補導歴があった高耶の心証は地元警察には最悪である。担当した刑事は、高耶を見るなり、またお前かといわんばかりに睨みつけ、
「前からお前は危険だと思っていたが、とうとうやったな」
と吐き捨てるように云った。
そして、頭ごなしに「お前が家族を殺して放火したんだろう」と食ってかかった。

マスコミはこぞって十四歳の少年の、実の家族への放火殺人をセンセーショナルに書き立てた。
高耶の仲のよかった友人と、担当の弁護士だけは、妹思いだった彼の無罪を信じていたようだが、深い絶望の中で高耶本人も自分がやったと認めた(否定しなかった)為に、高耶はアルコール中毒の父親に殴られたことでカッとなり、発作的に父親だけでなく止めに入った妹までも殺害し、証拠を消す為に放火したと断定されて、少年院に送致された。

自分さえ、つまらない喧嘩などせずに、まっすぐ妹の待つ公園に向かっていたら……妹と父親を二人きりにしなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
あの家で妹を守ってやれるのは、自分だけだったのに。
まだ六年生だった妹が、アルコールでおそらくまともな精神状態ではなかったとはいえ、実の父親の手で無残な最期を迎えたと云う現実。
どれだけつらく、苦しかっただろうか。



収監された少年院の狭い独居房で、高耶は来る日も来る日も己を呪い、眠れば炎に包まれる父親の夢を、助けを呼ぶ妹の夢を見た。
自責から、パニック発作を繰り返す高耶は、担当医の判断により、通常の少年院での矯正は困難と見なされて、心療専門スタッフのいる医療少年院へと移送された。

何度、自殺を考えたか知れない。だが、実の父親の手にかかり、妹が死の間際に感じた恐怖と苦しみを思うと、助けてやれなかった自分には、どんな死も生ぬるい気がした。
そんな時、監視の目を盗んで少年達が話している組織の噂を偶然、耳にした。
金さえ払えば、自分であろうと誰であろうと、望みのままに殺してくれる。
にわかには信じがたい話ではあったが、その話は高耶の頭を離れることはなかった。




++


自白剤による途切れ途切れの告白を、黙って聞いていた男は、啜り泣く端正な顔を見つめ、静かに云った。

「……二人の遺体は、司法解剖の際、死因の究明が困難なほど燃え尽きていたそうですね。警察は、殺人の証拠を消す為と一方的に決め付けたようですが……あなたは、妹さんが亡くなる間際に、お父さんに何をされたのか知られるのが忍びなくて、遺体に灯油をかけてわざと燃やしたんですね……」

そして───本人は否定するだろうが、おそらく高耶は心の奥では、妹だけでなく、できれば父親の名誉も守ってやりたかったに違いない。
どれほど酷い親であったとしても、許されない罪を犯したとしても、母親に捨てられた高耶達兄妹にとっては、たった一人の親だったのだから。

「オレ……が……殺……たすけ……やれなかっ……」
泣きながら、何度もそう繰り返す高耶が痛ましく、男は細い体を癒すように抱きしめる。
おそらく、すべてを自分のせいだと決め付け、己を責め続けた果てに、藁にもすがる思いで自分のオフィスへコンタクトしてきたのだろう。

自殺志願者が、できるだけ楽に殺してくれという依頼は多いが、自分をできるだけ残酷に殺してくれと頼む人間は、まずいない。
犯してもいない罪を被り、自らが無残な死を迎えることが、助けられなかった妹へのせめてもの償いだと、このひとは本気で思い込んでいたのだと思うと、男は高耶が痛ましくてたまらなかった。



「オレ……が……殺……」
癒えることのない苦しみの深さを表すように、自分が殺したと繰り返す体を抱く腕に力を込めて、男は諭すように囁く。
「あなたのせいじゃない……あなたは悪くない」
すると、高耶は子供のように泣きながら首を振った。
「高耶さん……聞きなさい」
男は、強いが暖かな口調で諭すように告げる。

「あなたのお父さんのしたことは、その時、お父さんがどんな状態であったとしても、決して許されることではありません。妹さんは……」
そこで男は痛ましげに目を伏せて、
「……妹さんは、本当にお気の毒でしたね。その日、二人きりにしなければ、こんな事件は起きなかったかもしれないと、あなたが自分を責める気持ちもわかります。でも、だからと云って、この事件はあなたのせいじゃない。もうそれ以上、自分を責めるのはやめなさい。あなたが死ねば、妹さんをより悲しませるだけですよ」

諭すような言葉にも、高耶はただ泣きながら、嫌々と首を振り、聞こうとはしない。
それどころか、薬のせいで焦点の合わない視線をこちらに向けて、必死に「殺してくれ」と訴える。
あまりの痛ましさに、男は胸が締め付けられる思いだった。
(かわいそうに……)

しばらくの間、男は無言で、何か考えているようだったが、やがて顔をあげると諭すように云った。
「高耶さん……あなたの望みを叶えてあげることは簡単です。そして、それが今のあなたの唯一の望みだとしても、可哀想ですが、それだけは叶えてあげるわけにはいきません。あなたは、俺に命を預けた──仰木高耶。あなたはもう、俺のものだ」
その言葉の意味を理解したのか、高耶の見開かれた瞳から新たな涙が頬を伝った。

男はその涙を指先で拭ってやりながら、
「──俺は今からあなたを奪う。あなたの、この綺麗な体を、心を、あなたの中の、まだ生きている部分を……あなたの何もかもを」

啜り泣く頬をいとおしげに撫でて、男は尚も囁いた。
「あなたが、死ぬより生きることの方が苦しいのなら、どうしても妹さんが亡くなったのを自分のせいだと言い張って、その罪を自分の死で贖おうとするのなら──あなたなんて、この部屋で、うんと生きて苦しめばいい」

それは、甘く残酷な愛の告白だった。
楽になりたいなら、俺の腕の中でなら、何度でも殺してあげるから。



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