ダブル・フェイク 3
BY k−330さま
宇和島市内にある長谷川氏の経営するホテル。
今日はここで奉需の宴が盛大に催される。「…三時間前から支度を始めて、なんで遅刻する羽目になるんだ?」
広い車の後部座席から目当てのホテルを車の窓の外に見やり、高耶は疲れた態で溜め息を吐いた。
「そりゃ、おまえが悠長にあいつらと記念撮影なんかやってるからだろ」
高耶の隣に座った潮がその愚痴に答えた。答えながら潮は、ご満悦のご様子だ。
何しろ、同行できるのは潮ただ一人。鷹ノ巣の隊員は誰も付いて来れない。
実は潮は、高耶には見えないところで隊員たちに、何かにつけて暴言を吐かれたり、低俗な嫌がらせを受けたりしていた。
(ったく、うざってー…っ)
だからこそ。いよいよ出発という時に見せた隊員たちの悔しげな表情は、今思い出しただけでも、そうとう溜飲が下がる。
妙にニヤニヤしている潮に向かって高耶は、
「元はといえば、おまえがオレの写真を外で撮るとかぬかしやがったせいだろーが」
押し殺した声で唸った。潮は化粧のせいで余計に鋭く見える両目で睨まれて、
「早咲きの枝垂れ桜が良い具合だったからなぁ。いやーバッチリ良い絵が撮れた。写真見たら氏照さんも泣いて喜ぶぜ」
話を逸らせようと取り繕って笑う潮に、高耶は溜め息を吐いた。
「…ったく。好きに言ってろよ、馬鹿」
予定より遅れてホテルに到着した黒塗りのハイヤー。
恭しい仕種でドアボーイが車のドアを開けた。
二人の人物が後部座席から降り立つ。
現れた見事な対の艶姿に、出迎えたホテルマンたちは皆一斉に、ほう…と溜め息をついて見惚れた。
スラリとした長身に身に付けた艶やかな衣装。朱と碧の一対。身に纏った鮮やかな色彩に染め抜かれたその衣装は着物の生地に似ているが、その様式は日本というより大陸の…中国の趣がある。
一方の人物は朱、一方の人物は碧の色を地に置き。宝玉を持ち、宙を睨んだ巨大な竜が(多少構図は異なるが、二人共に)金糸で画かれている。身を飾る装飾品は全て銀で統一されており。首にも腕にも銀鎖で出来たリングが幾重にも巻付けられて、動く度にしゃらしゃらと小さく涼やかな音を奏でた。
額には、鱗を模したのであろう−小指の爪程の大きさのドロップ型の螺鈿が貼り付けられ、遠目で見るとそれは、第三の目がそこに存在するかのように見えた。
顔には薄く化粧が施され、目許には京劇の俳優が施すような朱が入れられていた。
組紐で結わえられ背中に流された真っ直ぐな長い髪はおそらく付け毛だろう。化粧と合間って、彼らは一見すると女性とも見えた。
そして。色彩の持つイメージのせいだろうか。彼らの一方、朱を纏った細身の人物の襟足の美しさは特に秀逸で目が離せず、相手が男であると解かっていても触れてみたいと思わせるほどの彩があった。
不意に。弾かれたように、彼の人物が顔を上げた。
「どうした?」
碧の人物…潮が尋ねた。
「…誰かに、見られてる」
「見られてるって? そりゃあ、見て当たり前…」
「そうじゃない。そうじゃなくて…、」
好奇の視線とは違う、どこか異質な…不快さを誘う奇妙な波動。
眉間に指を当てて周囲を探る高耶に、
「おまえが言うのは、ひょっとしてアレのことか?」
潮は、頭を振って視線を促した。ロビー奥、エレベーターに向かう通路の隅に顔見
知りの人物がいた。
「あれ、元親衛隊長様だろ」
暗い目付きでこちらを凝視している男。
方向は…合っているように思う。発せられる暗い波動もそれらしい。しかし、異質さを感じたものは、アレではないように思う。
「眉間に皺なんか寄せんなよ。せっかくの奇麗な着物が台無しだろ」
考え込んだ高耶を、潮が揶揄した。高耶はふっと表情を崩し、
「よけいなお世話だ。テメーこそコレを前みたいにソースで汚すんじゃねえぞ。食い意地ばっかりじゃいつまでたっても女作れねーぞ」
身に付けた【竜の鱗】を指して言う。
「女なんか、いらねーよ」
潮はふふんと、笑い。
「俺には守らなきゃならないお姫様が一人いるからなぁ〜」
言って、恭しく右手を差し出した。
「ささ、お姫様お手をどうぞ」
男は、暗い目付きで彼らを見ていた。
数ヶ月前、公衆の面前で自分に恥をかかせた憎むべき人物と、その護衛と称してつい先日四国に乗り込んできた人物。誰もが振り返り、うっとりと見惚れる秀麗な姿で彼らはそこに現れた。
つと。彼らの視線がこちらを向いた。
――彼が、見ている。
男の胸が痛むように反応する。
しかしそれはほんの数秒のこと。視線は直ぐに反らされた。彼は男の存在を忘れたように連れの人物と笑い合う。
と、何か揶揄の言葉を投げかけられたのか。彼は恭しく差し出された右手を弾くように叩いた。腕を叩かれた人物は、不機嫌を露にした彼の人の顔を覗き込み、宥めるように笑いかける。そして、女性をエスコートするように強引にその腕を取り、二人して男の視界から消えてしまった。
あっけなく終わった、再会の瞬間。
男はずっと密かに待っていたのだ、その瞬間を。
しかし。彼は、大して気に止めてはいなかった。男にはそれが途轍もなく理不尽に思えた。
――自分はこんなに、待っていたのに。『なら、思い知らせてやるがいい』
天命のように。その声は降ってきた。『理不尽に思うなら、それを正せばよかろう』
ああ…、そうだ。そうだった。
何も思い悩む必要などない。簡単な、ことだ。
頭に響く声を、男は受容した。
エントランスへと続く広いロビーの一角。壁に背を持たせかけ、煙草を右手に燻らせ細く笑む男に向かって声を掛けた。
「直江」
呼ばれた男が振り向く。
「国主の持ち物に暗示を掛けて、おまえは何をしようってんだ?」
「知りたい…か?」
ポーカーフェイスで何も教えないたがらない男にとうとう痺れを切らしたのだろう。鮎川の表情は剣呑としていた。
直江は薄く笑い。指先と呪句で一瞬の内に二人分の結界を張った。たったそれだけで、二人の会話は周囲の人間たちの耳を素通りする。
「…主稜閣(主殿)で中央が出した結論を聞かされた。それは知ってるだろう?」
ソファーに腰を下ろし、おもむろに口を開く。
「その直後、別口で依頼があった」
なんだと思う? …と、鮎川を見上げて笑う。
「竜王と同時に四国国主も陥れろだとさ」
――最近の大きくなりすぎた四国の勢力に、中央は危機感を覚えたのだろう。それは、鮎川にも容易に察しがついた。
「ずいぶんと欲張りな依頼だな。…引き受けたのか?」
「もちろんだ。面白いだろう」
この魔物は、何より退屈が嫌いだった。何時でも刺激があって自分を飽きさせないもの…それだけに触手を蠢かしている。
「あの男は、生け贄の小羊(スケープゴート)という訳か?」
「そういうことだ」
察しのいい鮎川に直江は笑って見せる。
「たかが“色情鬼”一人相手に、四国最強と謳われた集団が一夜にして壊滅する。しかも、それを手引きしたのが国主の元親衛隊長だとなれば四国国主の権威は地に落ちる。そして、その最大の要因は、“竜王”の血族に名を連ねた人物だ。その彼が色情鬼の贄であった為に悲劇は起こった。“竜王会”は自粛を余儀なくされるだろう。…どうだ、シナリオは完璧だろう?」
男は、獲物を手に入れる為の手続きの煩わしさを本気で楽しんでいるようだった。
しかしそれは。既に自分の持ちモノであるはずの獲物に対する感情にしては熱すぎはしないか? 鮎川は懸念を抱く。
「お前は…大丈夫なんだろうな、直江」
「…? 何がだ?」
何かを言おうとして。鮎川は直ぐに気を変えた。
「いや、いい。やぶ蛇だった」
そういえば…と、鮎川は言った。
「長谷川夫人が呼んでいたぞ。ずいぶん待たせてるからな、早く行かないとヒス起こすぜ」
「わかった」
即されて。直江は立ち上がった。そして、踵を返しながら、
「一つ、言い忘れた。――四国は、俺が貰うぞ」
直江は、不敵に笑った。
「自分たちのエゴだけを優先する、中央の馬鹿どもを驚愕させてやろう――」
大胆にも、国を一つ手に入れる――と宣言した傲慢な男は、軽く鮎川に向かって手を上げ、エレベーターに向かった。その背に追いすがるように注がれる周囲の女たちの視線。
(フェロモン、垂れ流しにしやがって)
鮎川は、やれやれ…といった態で、溜め息をついた。たった今まで直江が座ってい
たソファーに腰を下ろし、先に直江に言いかけた言葉を反芻する。
(おまえは、本当に大丈夫なんだろうな…)
直江が聞けば、そんなことは有り得ない――と言って笑い飛ばすだろう。
しかし。そう言いながら深みに填り、滅びていった者たちを鮎川は幾人も知っている。
永遠に限りなく近い命を持つ種族が、僅か100年にも満たない短い年月で老いさらばえ消滅する人間という種族に溺れのめりこみ。喪失の現実に耐え切れずに自ら命を終わらせる――。そんなことが幾度か繰り返されて。とうとう吸血鬼という種族の純血はこの地上から消え失せてしまった。あの『直江』が、最後の…唯一の一人なのだ。
幾度となく繰り返されてきた、過ち。しかし。あの男に限って…、やはりそれは有り得そうにない。
(あの、誰よりも血の温度が低いと思える男に限って)
鮎川は、一人ごちる。
自分は何十年もの間、この男を見てきた。
この世の誰よりも、直江を理解しているには自分だろうと確信できる。見誤るほど浅い付き合いではない。誰を前にしても惑わされることない、決して本気になることのない冷血の男。
何者にも屈せず、服従することはおろか、ほんの一時の支配すら許さない。ただ己の欲望と本能に従うのみ。あれは、そういう男だ。
全ては退屈凌ぎの酔狂にすぎない。いつもと同じ。今までと同じ。
鮎川は、ソファーから立ち上がった。
「そんなことは、有り得ない…か」
口の端を引き上げて呟き、自分の中の暗い胸騒ぎを、“老婆心”だと嘲った。
ホテル最上階のスイート。
直江は部屋の前に立ち、木製の瀟洒なドアを軽くノックした。
「どなた?」
インターフォンからたおやかな女の声が聞いてくる。
「橘です」
名乗ったとたん、ドアは開けられた。
「いったい何処に行っていたの、義明」
直江をドアの内側に引き込んだ夫人は、詰りながらすがりついてきた。
「…ずいぶんお待たせしたようですね。申し訳ありません」
「よしあ…」
更に何か言おうとしていた夫人の唇を、直江は強引に塞いだ。
「…ぁ…ん」
深い口付けを受けて。夫人の唇から悩ましげな溜め息が漏れた。
「どうしたんです? 用心深いあなたがこんな一目のつく場所で私を呼ぶなんて。何か、あったんですか?」
「話が…あるの。とても大切な…重要な、話」
唇を解放され。男の胸に力なく縋り付いたまま、夫人は言った。
「奇遇ですね。私もあなたに話があったんですよ」
「何なの…?」
「先に、あなたの用件をどうぞ」
即すと。夫人は、節目がちに口を開いた。
「あなたに、助けてほしいの。今日、夫の命がもう長くないってことを主治医に知らされたの。でも私、今あの人に死なれると困るのよ。」
夫人は、頬を男の胸に擦り付ける。己の愛人であるところの人でない者に向かって、媚を含んだ瞳で哀願した。
「せめてお腹の子が生まれて…あの人の子だって認知されるまでは生きててもらわないと困るの。…だから、あなたの血の力を貸してほしいの。引き受けてくれるわよね、義明」
直江は、抱き寄せていた細くしなやかな腰から両腕を離し、微笑んだ。
「残念ですが、お断り致します」
「義明…!」
優しげな表情のまま哀願を切り捨てる男を、夫人は驚愕の眼差しで見上げた。
「そんな…っ、どうしてっ」
「あなたの用件はそれだけですか? でしたら――」
「私の話は、まだ終わってないわ!」
「あなたの申し出はお受けできません。契約外ですからね。それで、私の話というのは、その契約のことなんですよ」
夫人の縋る眼差しを無視して、男は笑う。
「あなたとの契約は、今日で終わりです。次の契約の執行が明日に迫ってるんです。多重契約はできませんから。それを伝えておこうと思って」
「ど、どういう…どういうこと?」
「契約を交わすときに話したでしょう? 私が終わりだと言ったときが、この契約の終わりだと。忘れたんですか?」
「私を…この私を捨てるって言うの?」
直江は、つと目を細め眉を寄せる。
「…苛々させられますね、あなたのその物分かりの悪さには。人間、欲に目が眩むと頭の回転まで悪くなるらしい。あなたはただでさえ、頭が軽いというのに」
「なっ、なにをっ」
顔を真赤にして夫人は叫ぶ。今までそんな無礼な言葉を面と向かって投げつけられたのは初めてだった。今まではあんなに優しく、自分の自尊心を煽ってくれていた男が…。
目の前の男が、別人に見えてくる。
「どうして、義明? 何か…あなたの機嫌を損ねるようなことを、私したかしら? だったら謝るわ。だから、そんなに冷たい声で私を詰らないで」
夫人は媚びた上目遣いで、長身の男の首に両腕を回した。
「まったく…」
男は、完全に馬鹿にした目付きで女を見やった。
「どうしようもない女だな」
「義明!」
無理矢理、縋った躰から引き剥がされて、女は無様に床に転がった。
直江はモスグリーンの絨緞の上に両手をついた女を見下ろし、
「私が今度手に入れる彼は、あなたの何十倍もきれいでその上、賢い。顔も躰も身に纏うオーラも、おまえたち凡人とは違う。…彼はね、特別なんですよ」
うっとりとした態で話す男。女は、戦慄と共に嫉妬を覚えた。
この男にこんな表情をさせる人間とは、いったい…
「何なら会いに行ってみますか? 彼に」
まるで。女の心が見えたように、男は言った。
「直接間近で彼を見れば、あなたも納得できると思いますよ。…彼は、本当にきれいだ。私はね、彼を手に入れるその日を指折り数えて待っていたんですよ」
煽るような言葉と眼差し。
男がドアを開ける。女はユラユラと躰を揺らし、立ち上がる。
そして、操られるようにドアに向かった。
幾重にも光を反射し輝く巨大なシャンデリア。
吹き抜けのホールに、よく通る声が響いた。
『聖華来迎』
麒麟宗主より聖冠を授けられた仰木高耶が、今日の祝いの席の主―山林王である長谷川氏に送る儀礼の謳。聖華−とは尊い人物を指し、来迎−とは神に導かれて浄土に至る…という意味をもつ。
清々と流れるように紡がれる謳。
そこにいる人々全ての視線を集めて、彼は謳う。
時折シャラン…と涼やかな音を立てる両腕・首の銀鎖飾りが、彼から醸し出される独特の清涼なイメージを際立たせる。
彼を遠巻に囲むようにして立つ観衆たちは皆一様にうっとりと聞き惚れ、口々に賞賛の呟きを漏らす。
(眼福ですなぁ)
(いやいや。この場合“耳福”と言ったほうが正しいのでは?)
(両方でしょう)
(まったく。…そういえば彼は、雷龍と呼ばれている北条氏の養子だったことは知っておられますか?)
(そういえば…聞いたことがあるような)
(後添えに迎えられた彼の母親が死んだそのすぐ後、現宗主の弟君の氏照氏の手元に引き取られたとか)
(親子揃って、ご寵愛…ということですな)
(まあ、無理もないと申せましょうが)
(いろいろと、下衆な勘繰りもしたくなりますな、あの容貌では)
称賛と讃美の囁きに、罪のない噂話が添えられる。
車椅子に座り、目を閉じて。瓏麗な謳声に浸る至福を味わっていた長谷川氏は、ふと気配を感じて目を開けた。
「来たのか。…躰の具合はもういいのか?」
謳を邪魔しないように、低い声で尋ねる。
現れたのは、躰の不調を訴えて同伴を控えていた、氏が三度目に迎えた妻だった。
「あれが…“仰木高耶”なの…?」
魂に染み込むような声で謳う人物を一心に見ている。
「あれが…私よりきれいだって言うの? そんなはず、ないわ」
その口から発せられたのは、呪うような嗄れた声。普段の彼女からは想像できないほど醜く歪んだ表情で、『仰木高耶』を凝視する。
「私のほうが、きれいよ。だって私はあの人から血を貰って、不老不死になったんですもの。私は、永遠の若さと美しさを手に入れたのよ。だから…」
自分に言い聞かせるような呟き。しかし。
『人間は、不老不死になどなれませんよ』
冷笑と共に、脳裏に男の声が響いた。
『我々種族と人間とは細胞から…遺伝子から違うんですよ。そもそも、なぜ人が“老いる”のか、あなたは理解しているんですか? “老いる”とは、日々コピーされては死んでいく細胞が、コピーされる段階で歪みを生じあるいは不鮮明になって元の正常な機能から遠ざかってゆくことを指すんですよ。つまりは、生まれながらに遺伝子内に内蔵されているコピー機の性能がその生物の寿命を決める、ということ。永遠に正常なコピーを続けるには、遺伝子を書き替えるしかない。それはむろん血を与えられたぐらいでは到底無理だということは、あなたのその軽い頭でも理解できるでしょう? 人間にとって私の血は、せいぜいが質の良いカンフル剤…といったところでしょうね』
「私を…騙したのね!」
女が、叫ぶ。それに男は、嘲笑で答える。
『騙したなどと人聞きの悪い。血を与えられれば不老不死になるなどと俺は一言も言っていない。おまえが世間の風説に惑わされただけだろう? 本当に、馬鹿な女だな』
頭の中に直接響く、冷たい言葉と冷たい笑い。
「ゆるせない…ゆるさないわ、義明っ」
意味不明の叫び声を上げる女。祝いの口上も、その叫びに中断した。
シン…と静まり返るフロアー。
「何を、言っている?」
妻の尋常でない様子に、氏は眉を寄せ声を荒げた。
「どうした、何をわけのわからんこと…」
突然。
女は髪を掻き毟り、奇声を上げた。
「おまえが…っ、おまえが悪いのよぉッ!!」
金切り声を上げて突進する。フロアーの中心に立つ人物に向かって!
「仰木ィ−!」
潮の叫びが、あまりに突然の非常事態に硬直したままの周囲にヒビを入れた。
「取り押さえろ!」
女の手には、いつの間にかナイフが握られていた。そこかしこから、悲鳴が上がる。
しかし、高耶は。落ち着いた表情で身を翻し。一瞬の早業で女のナイフを持つ手首に手刀を入れた。
「――っ!!」
女はナイフを取り落とし、痺れた腕を掴んでその場にうずくまった。
それを、駆けつけたボディーガードたちが取り囲み、取り押さえる。
「仰木、怪我は!?」
「別にねえよ」
女から庇うように腕を回してきた潮に、高耶はそっけなく答えた。
「私…私が悪いんじゃないわ、あの子が悪いのよっ!
あの子が、私の義明を誘惑したから…っ!!」
女が、数人の男に引き摺り上げられるようにして立ち上がらされながら、耳障りなしゃがれた声で叫ぶ。
それを横目で見ながら、
「義明…? 誰だよそりゃ。知ってんのか?」
「知らねーよ。大体なんでオレが男を誘惑しなきゃならねーんだよ」
「いや…そりゃ、無意識にってことも…無きにしもあらずってやつで…」
「無意識ぃ?」
剣呑な声で高耶が言い返すと、失言に気づいた潮は頭を掻いた。
その時。
(…、あの男!)
高耶は、遠巻に彼らを見ている人々の群れの向こうに、かつて二度遭遇した色情鬼の姿を見つけた。
窓辺に站む、すらりとした長身の男。目を細め、凝視する。
と。男は不意に笑った。
挑発するような含み笑いを端正な顔に浮かべながら、身を翻す。
「潮、後は頼んだ」
「へ…?」
潮は、突然駆け出した高耶に一瞬唖然とした後、慌てて、その背中に叫んだ。
「後は頼んだって…おいッ、どこ行くんだよ!」
潮の叫び声には答えず、高耶は駆けていった。
「何だってんだよ、いったい」
ブツブツと文句を言いながら、胸の隠しから携帯電話を取り出した。
短縮で支部を呼び出し、事の一部始終を報告する。
「――で、こっち方面で巡回してるやつに連絡入れて、何人か迎えに来させてくれ。
いや、大丈夫だとは思うけどな。一応、念のため」