妖僕ミラバージョン 4
夕食後、命じられるままにシャツの襟元を緩め、ソファに腰を下ろした直江の膝に、高耶は片足をかけて悠々と乗り上げた。
露になった男の首筋には、前回の吸血の際、高耶がつけた小さな咬傷がくっきりと残っている。
『魔』による咬傷は、手当をすれば出血は止まるが、傷自体は癒えることなく永遠に残る。
主従契約の証にも見えるその咬傷を目の当たりにして、本能を抑えられなくなったのだろう、高耶の双眸は、いつしか美しい真紅に変わっていた。
すでに、幾度か血を捧げてはいるものの、覆いかぶさるように、端正な顔を近づけてくる高耶の、冷たく柔らかな唇が己の首筋に触れた途端、男はごくりと息を呑んだ。
「動くなよ………」
小さな歯牙が、首筋の皮膚を破る。
刹那、電気のような痛みが走って、直江は僅かに眉根を寄せたが、なにより男は、ごく間近にある細くしなやかな体を、今にも抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
血液を吸い上げ、嚥下する唇の動きが淫らで、ゾクッとさせられる。
視線を落として盗み見ると、喉元に顔を埋める高耶の、漆黒の髪が目に入った。
細くさらりとした黒髪は絹糸のように美しく、首筋ごしに触れる皮膚は、陶磁のように冷たい。
この髪に指を差し入れ、項ごと引き寄せて、冷たく柔らかな唇に口付けたい。
抗い難い誘惑に、男の両腕が無意識に上がって、いまにも細い背に回されようとしたその時、不意に高耶が顔を上げた。
我に帰った男は、さすがに今回ばかりは心を読まれたに違いないと、内心慌てふためいたが、当の高耶は単に『食事』を終えただけのようだった。
あーうまかったとご機嫌な様子で、口元を子供のようにごしごしと拭っている。
「あの………高耶さん、もう………いいんですか?」
「ああ。すぐ手当てしてやるから、まだ動くなよ」
変わらぬ口調で答える高耶に、心底安堵しつつ、複雑な心境の直江をよそに、救急箱を手にした高耶は、傷口に止血剤を含ませたガーゼを押し当て、血止めをした。
「あの………どうもありがとうございます。あとは自分でやれますから」
「いいから、じっとしてろ」
手当てを固辞する男を制し、手際よく血止めを終えた高耶は、男の首筋に新しいガーゼを貼り付け、救急箱を片付けると何事もなかったかのように立ち上がった。
慌てて己も立ち上がろうとする男を手で制し、
「オレは風呂に入ったら、少し調べたい資料がある。お前は今日はもう、先に休め」
「………そうですか………わかりました。では、そうさせて頂きます。おやすみなさい、高耶さん」
バスルームへ向かう背を、男が視線の先で追っていると、高耶はふと思いついたようにドアの手前で立ち止まって、思わせぶりにこちらを見た。
「直江。―――お前、さっきオレが血を吸っている間―――いったい何を考えていた?」
途端、ギクリと身を竦ませた男に、高耶は無邪気に微笑んだ。
「今日のおまえの『気』は、この前より甘かったぜ?」
「………」
高耶が出て行き、ソファに残された男は、力なく苦笑した。
あのひとには勝てない。
残念だが、次からは、(吸血は)首ではなく腕にしてもらった方がいいだろう―――嘆息し、さすがに少し疲労を感じて、寝室に行こうと立ち上がったその時だった。
不意に男の目の前がぐらりと歪んだ。
(え―――?)
咄嗟に膝をつこうとしたが、間に合わず、直江はその場に無様に崩折れ、意識を失った。
***
気づいた時、男は自分がなぜベッドに横になっているのかわからなかった。
間近で、こちらを心配そうに覗き込んでいる高耶の端正な顔―――
「………高耶さん………えっ………?」
驚いて、上体を起こそうとした男の視界が、再び、ぐらりと歪む。
「無理しなくていいから、横になってろ」
わけもわからず動揺する男を制するように、高耶は言った。直江のシャツの襟元からは、先ほど高耶が血を吸い、手当てを施したガーゼが覗いている。
「あの、私は………」
眩暈はすぐに治まったが、わけがわからず困惑しきった様子の男を、高耶は複雑な表情で見つめた。
「驚いたぞ………。風呂から出てきたら、いきなりお前、倒れてるんだからな」
「………」
そうだった。
夕食後にリビングで高耶に血を与えた後、ソファから立ち上がろうとして―――その後の記憶がない。
男の顔色が一気に青ざめた。
ということは、気を失った自分を寝室まで運び、ベッドに寝かせてくれたのも高耶ではないか。
死にかけの人間を救えるほどの高耶だから、『力』を使えばなんてことはないのかもしれないが、よりによって、このひとの前で倒れるとは―――我ながら、あまりの不甲斐なさに落ち込む男に、
「すまなかったな」
と、高耶がいきなり謝ったので、男は驚いて端正な彼の顔を見た。
「高耶さん………?」
「おまえが倒れたのは、この前の事故での出血が原因だろう。なのに、その後、いい気になってオレが何度も血をもらったから………」
直江はそこらの人間より長身で体格もいいし、少しぐらい多めに(血を)もらっても大丈夫だろうとタカをくくっていた。
だが、所詮、生身の体に過ぎない男に、短期間に無理をさせすぎた。
己が奴隷の体調管理は主の務め、配慮を欠いたと詫びる高耶に、男は恐縮しきった様子で、
「そんな………!高耶さん、謝らないで下さい。私の方こそ、本当にすみませんでした。これまで貧血など起こしたことはありませんし、次は絶対に大丈夫ですから」
情けない奴だと思われたに違いない―――制止を振り払い、身を起こして必死に弁明する男を、高耶は気遣うように見遣った。
高耶がひととして生きる為には、どうしても、人間の血液が必要だ。
少なくとも、十日に一度―――できれば週に一度は血液から気を取り込まなけれは、魔の本能が暴走し、自分を抑えることができるかわからない。
だが、直江がいくら次は大丈夫だからと言い張っても、定期的に一定量の血液を失い続ければ、遠からず再び男の体調に影響が出るのは明らかだった。
押し黙ってしまった高耶に、もしや見限られたのではと、直江は違う意味で蒼白になっている。
だが、戦々恐々としている男に、高耶が告げた言葉は、以外なものだった。
「………血液以外にも………おまえから気をもらう方法が………、ないわけじゃあない」
「えっ………、それは、他にも方法があるということですか?」
「ああ。でも………」
めずらしく、歯切れの悪い高耶に、このまま捨てられてなるものかとばかりに、直江は必死に食い下がった。
「それはどんな方法ですか。私のこの体の血はすべて、あなたに捧げたってかまわない。でも、それ以外にも、あなたの為にできることがあるのなら、私はなんだってしますから………教えて下さい、高耶さん」
「………」
直江が必死になればなるほど、なぜか高耶は言葉を濁す。
「………高耶さん?」
「うー……、」
彼らしくもなく、しまいに、なぜだか赤くなって口ごもってしまった高耶を宥めてすかして、ようやく男が聞き出したもう一つの方法―――それは、「契ること」だった。
つまりは結合し、快楽により昂まった贄が放つ体液より、『気』を取り込むのだという。
想像もしなかった言葉を耳にして、一瞬、絶句する男を前に、高耶は真赤になった顔を背けた。
「高耶さん………それは、本当ですか」
問いかける声が震える。
下僕となって日は浅いが、すでに身も心も彼の虜となって、先ほどの吸血の際も、高耶を抱きたい衝動を抑えるのに必死だった男にとっては、それは、にわかには信じ難い言葉だった。
もう一度、念を押すように問いかけると、高耶は赤くなったまま頷く。
歓喜のあまり、発作的に細い体を己へと引き寄せようとした瞬間、男は不意にある可能性に思い当たって、一気に青ざめた。
「―――高耶さんっ!」
いきなり両肩を摑まれ、高耶は驚いたようにこちらを見る。
「なっ、なんだよっ。急に大きな声出すな」
直江は必死だった。
何と言われようが、今、頭に浮かんだ(男にとっては何より恐ろしい)その疑惑を確めずにはいられなかった。
「高耶さん。あなたはっ、………、その、これまでに、その方法で、他の誰かから気を………」
高耶は赤くなった顔を更に赤くして、
「オレが自分の下僕を持ったのはお前がはじめてなんだから、あるわけないだろっ」
その言葉を聞くなり、今度こそ男は細い体を思い切り、腕の中に抱きしめていた。
「………!」
突然の下僕の行動に高耶は驚いた様子だったが、拒むそぶりはなく、むしろ、かき抱く男の体が小刻みに震えているのを悟って、逆におずおずと問いかけてきた。
「直江。おまえは嫌じゃないのか?オレも………オレのこの仮初の体も、おまえと同じ『男』なんだぞ―――?」
高耶が『夜叉』と恐れられていた戦国の世では、人間の主とその従者が忠誠の証として契ることは、めずらしいことではなかった。
本来は気を取り込むことさえできれば、贄の血肉を喰らおうが、どのような手段を選ぼうが構わないのだ。
だが、いくら主従契約を結んだ身とはいえ、現代に生きる直江にそれ(同性同士の行為)を強いるのは酷だろうと思ったし、何より高耶はその方面には奥手だったらしく。
しまいに真赤になった顔を隠すように俯いてしまった高耶が、男はたまらなくいとおしいと思った。
性別など関係ない。あなただから―――ここまで欲しいと思ったのだ。
抱きしめる腕に力を込め、直江は真摯な声で囁いた。
「高耶さん。私は………私は、あなたの傍から離れません。この先、何があろうと絶対に」
「………直江?」
今更、何を言っている。おまえはオレのものなんだから当然だろう?と言わんばかりに、こちらを見上げる高耶に、男は構わず、
「いまは、まだ足手まといにしかならなくても、近い将来、必ずあなたと対等か、それ以上の術者となって、あなたを守れるようになってみせます」
「………」
「私は、あなたを………」
愛している。
その言葉のかわりに、男は形のいい顎に手をかけて、冷たく柔らかな唇に唇を重ねた。
「―――ッ、」
強引な口付けに驚く高耶の唇ごしに、男の『気』が一気に流れ込んでくる。
先ほど、血液から取り込んだものとは比べ物にならないほど、甘く濃厚な『気』を口移しで注がれて、僅かにひるんだ隙に、気がつけば、高耶は抱きしめられたままベッドに倒され、たくましい体躯に組み敷かれていた。
体重をかけて覆いかぶさる男の腕から逃れようともがきながら、高耶は必死に言葉を紡ぐ。
「馬鹿っ―――よせ。いまは、駄目だ。さっき血をもらったばかりだし―――おまえの体が………ンンッ」
再び、その唇を唇で塞がれる。
弱々しく抗う細い両腕を頭上で一纏めにし、直江は先ほどとは逆の形で、高耶の首筋に顔を埋め、きつく口付けた。
「―――なおっ、……!」
「高耶さん―――私は、あなたのものです。そして、あなたも………私のものだ………」
「………ッ、」
高耶は尚も何か言いかけ、躊躇う様子を見せたが、男の本気をその身で悟ったのだろう―――やがて観念したように呟いた。
「おまえは、馬鹿だ。もし、また倒れたって、オレは看病なんてしてやらないからな?」
いとしいひとの精一杯の抵抗の果てに、許された歓喜に、男は甘く呟いた。
「………御意」
To Be Continued.