心霊探偵八雲 mira vervion 1
ストレッチャ-に横たえられ、黒いビニールシートがかけられた遺体には、担当刑事によって発見された時のデータが記されたファイルが添えられている。
『被害者は所持品により、××区××3-1-10、安藤聖、男性、二十五歳と判明。×日午前6時48分、××道脇に倒れているのを通行人により発見……』
ファイルに眼を通し終えた監察医・直江信綱は、数珠を手に、改めて目の前に横たわる故人に手を合わせた。
遺体は、訴えている。自分の人生を奪った犯人を、一刻も早く捕まえてくれと。
直江は心の中で、その声なき声に応えた。
無念だったでしょう。必ず、犯人を検挙しますから、その為に協力してください。
眼を開けた男は、白衣のポケットに数珠を仕舞い、マスクと医療用手袋を嵌めると、徐にビニールシートを外した。
監察医になって六年。
無残な遺体を前にしても、取り乱すことはない。犯人を一日も早く検挙することが、何より故人と、その遺族への供養になる。
直江は、静かに、自分の仕事に入っていった。
***
「警視庁刑事課・未解決事件特別捜査室」―――長い名前がつけられたその部署は、某大学に程近い、一見、何の変哲もないビルにあった。
その名の通り、通常の捜査では、解決の糸口すら掴めない、少々、特殊な難事件を専門に担当する部署である。
この、少々、特殊な事件というのは、刑事課が遭遇する様々な殺人事件の中で、あまりに理解し難い、心霊や超常現象がらみとしか思えないような事件を指す。
無論、警察は霊や超能力など信じていないが、実際に、科学では説明のつかない事件が、頻発するようになったことで、本庁の色部勝長の熱意もあって、この部署の設置が実現した。
責任者には、提唱者の色部が就任した。
色部は本庁から指揮を取り、実質的に、捜査を担当する刑事は、千秋修平と門脇綾子だ。
あらゆるケースを想定し、本庁刑事の中から、個々の能力も考慮した上、男女一名づつという規定の元に、この二名が選ばれた。
更に検死担当として、監察医の直江信綱が抜擢された。無論、この人選にも、それなりの理由があった。
直江は他の医者とは異なる経歴を持っている。実家が真言宗の末寺で、本人も得度している、医師でもあり、れっきとした住職なのである。
これ以上、この部署に相応しい監察医はいなかった。
色部を除き、全員が同じ大学出身という偶然を除けば、年齢も個性もまったく違う彼らの仲は、ある意味、ケンカするほど仲がいいとでも言うのか、微妙なところだったが、それでも、チームワークは完璧で、彼らはわずか半年のうちに、見事に四件の迷宮入りと称された難事件を解決してみせた。
その影には、ある協力者の存在があるのだが、事情により、その存在は伏せられている。
ただ、開設当初、嘲笑の的となっていたこの部署が、短期間に驚くほどの実績を上げたことで、他の部署の刑事達も、さすがに、彼らに一目置かざるを得なくなったことだけは事実だった。
***
その日、直江が捜査室を訪れると、そこにはソファに踏ん反りかえってコーヒーを飲んでいる千秋と、何かを思案している仰木高耶の姿があった。
「高耶さん!」
高耶と呼ばれた、おどろくほど端正な顔立ちをした青年は、顔を上げると、いつものように、少し照れたような表情を見せた。
彼こそが、この部署の隠れた協力者だった。
普段はカラーコンタクトで隠しているが、高耶の左眼は、生まれ付き、この世のものとは思えない深紅で、その左眼は、地上にさまよう死者の魂が見えてしまう、特殊な力を持っている。
高耶が直接、死者の声を聞くことで、犯人に繋がる手がかりを得て、千秋達が物的証拠を固め、犯人を逮捕する。
]彼の助力がなければ、これほど短期間に、いくつもの難事件を解決することは到底、できなかっただろう。
だが、神の気まぐれかどうかは知らないが、その、持って生まれた忌まわしい左眼のせいで、高耶が、想像を絶する苦悩を抱えて生きねばならないことも事実だった。
高耶とはじめて会った日のことを、直江は忘れない。
今からちょうど十年前の、ある深夜、直江が車で繁華街を、自宅に向かって走らせていると、ヘッドライトが一瞬、ビルの影に蹲る何かを映し出した。
異変を察知し、咄嗟に車を急停止させると、雨の中、若い女が泣きながら何かを叫び、子供の首に手をかけようとしていた。
二人が親子だというのは、一目でわかった。なぜなら、ライトに照らし出された母親の顔はとても美しく、傍らの子供も、彼女に似て、それは綺麗な顔立ちをしていたからだ。
母親が子供を殺そうとしている―――車を飛び降りた直江は、女に向かって駆け出していた。
「いけない!」
あの日、母親に何を言われたのかは、本人が固く口を閉ざしているので、いまだに直江は知ることができずにいるが、その結果、無抵抗に、母の手に身を委ねようとした、幼い高耶の姿だけは、生々しく記憶に残っている。
ようやく、細い首から母親の腕を引き離した時、彼の呼吸は止まっていた。幼い体は、氷のように冷えきっている。当時、医学生だった直江は、必死に蘇生を試みた。
人口呼吸、心臓マッサージ……数秒が、永遠にも感じる。
「しっかり……しっかりして!眼を開けて!」
頼む、この子はまだ子供じゃないか。助けてくれ―――そんな直江の祈りが通じたのか、やがて、うっすらと眼を開けた幼い彼の左眼は、直江がそれまで見たこともない、ルビーのような深紅だった。
衝撃を押し殺し、できる限り優しく、直江は言った。
「よかった……大丈夫。もう、心配はいらないから……名前は?」
長い沈黙の後、虚ろな声で幼い彼は言った。
「……たかや」
直江が我を忘れて、高耶を救おうとしていた間に、彼の母親はその場から、かき消すように姿を消した。
彼女は、あの日以来、行方不明になっている。
その後、多少ならずとも、名の知られた寺が実家であることが幸いし、家族の同意もあって、身よりのない高耶は、直江家に引き取られることになった。
高耶が精神の安定を取り戻し、今のように日常生活を送れるまでには、とてつもなく長い月日がかかっている。そして、同じく長い時間の果てに、直江は単なる保護者から、晴れて彼の恋人の地位に昇格したばかりだった。
高耶のことを、誰よりも見てきた直江には、いまの彼がどんな精神状態なのか、一目でわかる。
平静を装っているが、このひとはまた、死者を見たのだ。そして、そのことで少なからずショックを受けている。直江は千秋を見据え、低い声で言った。
「長秀―――お前、また、このひとを現場に連れていったな?このひとは民間人で、刑事じゃない。ごく普通の大学生だ。いいように捜査に連れまわすのはやめろと、何度言ったらわかる」
「……おおこわ」
直江の剣幕に、千秋は大げさに首を竦めた。
ちなみに、『安田長秀』というのは、千秋のコード名だ。特殊部署に勤務する彼らは、容易に本名を名乗らず、捜査もコード名で行っている。
今は席を外している、綾子のコード名は『柿崎晴家』と言い、彼らの仕事を手伝うことが多い直江にも、殆ど使うことはないが、『橘義明』というコード名が与えられていた。
「……いいんだ、直江」
こともなげに高耶は言った。
「どうせ大学には籍を置いてるだけだし、オレが自分の意志で協力すると決めたんだ。それに、現場を見たいと言ったのはオレだ」
直江は、気遣わしげに高耶を見た。その後、ますます表情を険しくして千秋を睨む。だが、千秋は慣れているので、どこ吹く風だ。
彼らが、現在、担当しているのは、都内××区で起きている連続児童殺人事件だった。
被害者は小学生から中学生の少女で、年齢はばらばらだが、わずか二週間の間に、罪もない子供三人が犠牲になっている。
遺体はすべて、××川の支流や河川敷で発見されており、死因は皆、溺死だった。
現場では、夜毎、女の子の霊が出るという噂が立ち、目撃者は日を追うごとに増えつづけ、挙句に霊を見たという何人もがパニックを起こして川に落ち、一人が重体になるなど、深刻な事態になっている。
溺れそうになった者は、皆、見えない手に足首を掴まれ、引き摺り込まれたのだと主張した。
「霊を見たという全員が、本当に霊を見たかどうかはわからない」
静かな声で高耶は話し始めた。
「なかには、霊が出る、という情報を与えられただけで、実際に、霊を見たような錯覚に陥ってしまう人間もいるからな。でも、あの現場には……確かに女の子の霊がいた」
「……高耶さん」
「写真と、この眼で確認したから間違いない。あの子は、この連続殺人事件の最初の犠牲者だ」
「んじゃ、あれか?まさか、その子の霊が、他の人間を川に……?」
千秋の問に、高耶は難しい顔をして、
「それは、違うと思う……少なくとも、あの子の魂からは、他人や……犯人に対する恨みすら感じられなかった。行くべき場所に行きたいのに、何かがあの子の魂をあの場所に縛りつけていて、そのせいで、あの子はとても苦しんでいる」
「……かわいそうにな……」
溜息をつく千秋に、高耶は更に言葉を続けた。
「ひとつ、気になることがある。あの子は、泣きながら、おとうさん、やめてと言っていた」
さすがの千秋も、これには表情を険しくした。
「……なんだって?それじゃあ、まさか最初の犠牲者の父親が犯人だってのか?」
父親が犯人―――それを聞いて、直江はまた、心配そうに高耶を見た。何より、このひとは、自らも、幼い頃、実の親に殺されかけるという、悲惨な体験をしている。
だが、高耶は、尚も淡々と千秋の問に応えた。
「いや、少なくとも、最初のあの子に関しては、父親に殺されたんじゃないことは断言していいと思う。だが、後の二人は……」
高耶は彼自身も、まだ確信できずにいるのか、曖昧な言い方をした。
「おい、待てよ。ということは……最初の子供を殺した犯人と、後の二人を殺した犯人は別人ってことかよ」
頭をかきむしる千秋に、高耶はきっぱりと告げた。
「何にしても、急いで犯人をあげないと、また新たな犠牲者が出ることになる―――千秋。最初の犠牲者の家族には会ったか?」
「……ああ。現場から、そう遠くないところで開業している、産婦人科の医者だよ」
高耶は、腰をあげて、
「その医者に会いたい。聞き込みの理由はお前にまかせるから、適当にやってくれ。できるだけ早い方がいい。できれば、今すぐに」
「高耶さん!」
心配そうな声を上げた男に、高耶はまた、照れたように笑った。
「そんな声出すなよ。約束したはずだ。オレは、お前に心配かけるような真似は、二度としない」
「……仕方ありませんね」
直江は渋々、了承した。
高耶は、一度言い出したらひかない性格だ。
それに、子供に手をかけるような人間は、一刻も早く検挙しなければならず、高耶が動けば動くほど、それだけ、事件解決に近づくのも事実だった。
「わかりました。ただし、私も一緒に行きます。……いいな、長秀」
***
三十分後。
彼らは、最初の被害者の家である、木下医院前に立っていた。
産科・婦人科・外科と書かれた建物は白いコンクリートの三階建で、個人経営の医院としては、なかなかの規模である。
自動ドアをくぐり、院内に足を踏み入れると、やはり、事件の影響なのだろう、診察時間内だというのに、待合室のソファは空で、受付も無人だった。
「すみません、どなたかいませんか?」
千秋が声をかけると、すぐに診察室のドアが開いて、五十代前半と思しき白衣の男が顔を覗かせた。
「ああ……刑事さん……先日はお世話になりました。すみません、今日は人がいないもので……どうぞ、こちらへ」
彼らを診察室内へと案内した木下医師は、中肉中背で、温厚そうな人物だった。
だが、やはり、一人娘を失くしたショックからか、つくり笑顔を浮かべた顔はやつれ、苦悩がありありと浮かんでいる。
不運なことに、この医師は、娘を失う一年前に、病気で妻を亡くしていた。遅い結婚で、ようやく持ったかけがえのない家族をすべて失ったのだ。
その悲しみは、到底、計り知れないだろう。
椅子を勧められたが、どうぞおかまいなく、と千秋が言って、傍らの直江と高耶を、当然のように同僚の刑事だと紹介した。
直江はともかく、まだ二十歳になったばかりで、白いシャツとジーンズ姿の高耶は、刑事と名乗るには、いくらなんでも無理がある。
「……刑事さん?こちらの方は、随分、お若いようですが」
あきらかに怪訝な表情を浮かべている木下の前に、高耶は有無を言わせず進み出て、「仰木高耶です」と丁寧に頭を下げた。
「……仰木……高耶?」
木下は、ますます怪訝そうな表情を浮かべ、まじまじと高耶を見ている。その様子は、遠い記憶を辿り寄せ、何かを思い出そうとしているかのようにも見える。
(マズイな、コイツ、疑われてる……まあ、無理もないか)
千秋が、せめて高耶にスーツでも着せてくるんだったと内心、頭を抱えた時、木下は、不意に、声を上げた。
「君……高耶くん!もしかして、君のお母さんは、佐和子さんと言うのではないですか?」
途端、高耶の表情が変わった。直江も同様だ。
千秋はあっけに取られた顔で高耶を見遣り、知り合いか?と促した。
「……確かに、私の母親は仰木佐和子ですが」
高耶の返答は落ちついていた。
だが、さすがに動揺は隠せない。高耶の返答を聞いた木下は、この日、初めて明るい笑顔を見せた。
「ああ、やっぱり!そうか、君があの……それじゃあ、左眼には、コンタクトを入れているんだね?」
この男は、このひとの眼のことまで知っている!
警戒を強めた直江は、高耶を背後に庇うかのように、さりげなく前に進み出た。
直江の殺気を肌で感じた木下は、頭をかき、
「ああ、いや……すみません。あまりに驚いたのと、その、嬉しかったもので、つい年甲斐もなく……高耶くん、いや、その、刑事さん。あなたが私を知らないのは、無理はありません。実は、佐和子さんは、昔、この病院に入院していたんです。あなたを取り上げたのは、この私なんですよ」
思ってもみなかった展開に、彼らは一様に絶句した。
木下は、おそらく本当に、心から子供が好きで産科医になったのだろう。この時ばかりは、心底、穏やかな表情を見せて、
「気を悪くしないでほしいんだが……実を言うと、君を取り上げた時、私は、この子は長くは生きられないのではないかと思ったんだ。その……君の眼は、それまで、見たこともない症例だったからね」
―――症例、か。高耶はかすかに苦笑する。
「でも、あの時の君が、まさか、こんなに立派になって……佐和子さんは、それは綺麗なひとで、病院内でも話題になっていたよ。君は、本当にお母さんに生き写しだ。お母さんはお元気ですか?」
その問に、高耶は、無表情で、
「母の行方はわかりません。十年前に私を殺そうとして未遂に終り、その後、行方不明です」
「そんな……」
木下は絶句した。
直江も何か言いかけたが、高耶に何か考えがあって、わざとそう答えているのを察した千秋が、さりげなく直江を制した。
木下は、信じられないというように首を振り、
「それは……何か理由があったのでしょう。娘を亡くした私にはわかる。ただ、忌み嫌っているというだけで、親が子供に手をかけるなどありうるはずがない。その行為にいたるまでに、きっと、彼女なりに、何か理由があったのですよ」
「自分の子供を殺そうとした女性が、どんないいわけをするのか、再会したら是非聞いてみたいものですね」
高耶の答えは冷ややかでそっけないものだった。
実際に、殺されかけた高耶にとっては、当然の返答と言えなくもないが、実は高耶はあえてそう答えることで、冷静に、木下の反応を見ていた。
「そうですね……。どんな理由があろうと、許されることではない」
項垂れた木下と、高耶の間に、とうとう堪え切れなくなったのか、直江が割って入った。
高耶の出生は、謎に包まれている。
直江としても、当時を知るこの男に、話を聞きたいのはやまやまだったが、いまはこれ以上、このひとを傷つけるような話題を続けさせるわけにはいかない。
「すみませんが、木下さん。私達は捜査の件でお伺いしているのですよ。懐かしい話は、また、今度にして頂けませんか?」
「あ、ああ……そうでしたね。申し訳ない……」
我に帰ったのか、木下は素直に頭を下げ、居住まいを正した。
タイミングを見て、千秋が前に進み出る。
「……それで、すみません。木下さん。何度もお伺いしたことの繰り返しになってしまうかもしれませんが、捜査の為に、ご協力頂けますか」
千秋が、高耶に言われた通り、予め用意してきた幾つかの質問を木下にしている間中、高耶は少し離れたところから、その様子を見つめていた。
そして、そんな高耶を、直江が気遣うように見ている。
言葉に出さずとも、高耶がその左眼で、自分達に見えない何かを見たり、何かを感じていることは確かなようだった。
自分達は、このひとの能力を利用している。
子供を殺した犯人は許せないし、一刻も早く検挙を思う反面、いいように高耶を利用しているというジレンマに、直江は胸が痛まずにはいられなかった。
***
医院を後にすると、待ちきれないというように千秋が、難しい顔をして黙り込む高耶を急かした。
「どうだった?あの対応を見る限り、俺には木下が犯人のようには見えなかったんだが……やっぱりアレか?奴はクロなのか?」
「……今は、なんとも……だが、見たか?直江」
「なにをです?」
「診察室の棚に、『輪廻転生』『肉体と魂』『前世の記憶』……住職でもある、お前ならともかく、普通の医者が読むとは思えない本が何冊も並んでいた。背表紙が新しかったから、どれも最近、買い集めたものに違いない」
高耶の、いつになく深刻な表情に、直江はまた気がかりな眼を向けて、
「……では、『お父さん、助けて』という言葉の意味は……まさか」
そこで、二人の会話を遮るように、千秋が噛みついた。
「おいコラそこの主従関係!お熱いなのはわかるがな、てめーらだけでわかる会話してんじゃねえぞ。ちゃんとわかるように説明しろ」
「……千秋」
それまでの深刻なムードが一転し、高耶は苦笑した。
主従関係。
千秋は一回りも年下の高耶に、恭しく接する直江を冷やかし、よく、二人の関係をそう呼ぶ。
千秋は、一見、皮肉屋で、自分勝手に生きているように見えるが、実はまわりに気を使うし、直江と直江家の人達を除いて、紅い左眼を見ても恐れることもなく、普通に接してくれる数少ない人間だ。
二人の関係をそれとなく悟っても、時々、こうして冷やかしてくるものの、偏見を持ったりせず、つまりは、とても、「いい奴」なのである。
高耶は表情を引き締めると、改めて話しはじめた。
「……木下医師に会って確信した。最初の犠牲者、つまり、木下えりかについては、彼が犯人ではないことは断言できる。だが……残りの二人については……」
「やっぱり、犯人は二人いたってことなんだな?」
「……ああ」
「木下えりかを殺した犯人が別にいる。そして、残りの二人を殺した犯人が、木下……」
だが、見る限り、木下は心から子供が好きそうに見えた。
娘の死を嘆いていたあの表情は、とても演技とは思えない。そんな男が、他の子供をはたして殺すだろうか。
あの男が本当に犯人だと仮定して、理由は何だ?
娘を亡くしたことがショックだったからか?だが、そんな馬鹿な―――千秋が頭を抱えていると、門脇綾子から、彼の携帯に連絡が入った。
***
しばらく会話していた千秋が通話を切るや、
「仰木、やっぱり、お前の睨んだ通りだったよ。―――直江。お前、昨日、安藤聖っていう奴の検死、しただろう」
「ああ、若い男で、ひき逃げだった。おそらく、すぐに病院に搬送されていれば、助かったかもしれない。気の毒に」
「そいつの部屋から、木下えりかの写真と、遺品と思われるランドセルが出てきたそうだ」
直江は驚きに眼を見張った。
「ただし、他の二人の遺品は見つかっていない。裏付けはまだだが、木下の娘を殺したのは、まず安藤で間違いないだろう……って、もう死んでるけどな」
千秋は嘆息した。
できれば、生きている安藤を検挙し、罪を償わせたかったが、それはもう、かなわない。しかも、その安藤をひき逃げした犯人は、まだ捕まっていないのだ。
まったく、事件が多すぎる。
「問題は、もう一人の犯人が木下としてだ。証拠がない。動機も謎だ。理由なく家宅捜索するわけにもいかねえし。どうするか」
すると、高耶が陰鬱な表情で呟くように言った。
「動機は……想像にすぎないことが、あるにはある」
「なんだって?」
だが、高耶の歯切れは悪かった。いまはまだ、その先を言いたくはないらしい。
察した千秋は、とりあえず、それ以上の追及をやめた。何にしても、木下が犯人だという物的証拠を押さえることが先だし、それは刑事である千秋の仕事だ。
高耶は、尚も暗い表情のまま、
「とりあえず、木下から眼を離すな。当たってほしくはないが、万一、オレの想像通りだったとしたら……あの様子では、いまの彼には何を言っても駄目だろうし、自供もしないだろう。……残念だが、近いうちに、彼は必ず、また同じことをやる」
***
その日、直江が自宅に戻った時は、すでに深夜を回っていた。
先に帰宅していた高耶は、居間のソファで、ブランケットを被って眼を閉じている。
声をかけようと思ったが、あまりよく眠っていて起こすのが可哀想だったので、直江は先にシャワーを浴びることにした。
シャワーを終え、ローブを羽織って居間に戻ると、高耶は先ほどと、まったく変わらない格好で、ぐっすりと眠り込んでいた。
そうして眠る彼の寝顔は、驚くほど幼く見える。
いとおしさがこみあげて、直江はたまらず、手を伸ばして滑らかな頬に触れた。
高耶は、本当によく眠る。
眠っている間だけは、このひとは、見えないものに脅かされることはない。
彼が本当に心から安らげるのは、夢の中にいる、今だけなのかもしれない―――そう思うと、切なくなった。
過去に高耶は、発作的に己の左眼を、ナイフで刺そうとしたことがある。
この左眼さえなければ、ひとに忌み嫌われることも、見なくていいものも見ずに済むと。
直江が側にいなかったら、本当にやっていたに違いない。
その際、誤ってナイフの刃先が止めようとした直江の左手首を傷つけ、そのことが、直江よりも高耶の心に、より深い傷を追わせた。
なぜ、あなただけが、これほどまでに、重い十字架を背負って生きなければならないのだろう。
(高耶さん……)
傍らで、しばらくの間、寝顔を見守っていると、寝返りを打った高耶が、男の気配を感じたのか、うっすらと眼を開けた。
眠っていたので、無論、コンタクトは外されている。
高耶が左眼を偽ることなく過ごせるのは、この部屋のなかだけだ。
黒く澄んだ右眼と、深紅に染まったルビーのような瞳は、この世のものとは思えないほど美しく、儚く見えた。
「……起こしてくれればよかったのに」
高耶は照れたように微笑み、占拠していたソファに上体を起こして、場所を譲った。
男は、その隣に、滑るように腰を下ろすと、シャツの肩に腕を回して、細い体を抱き寄せた。
きつく抱きすくめられて、男の広い胸のなかで、高耶が文句を言う。
「……苦しいだろうが」
「あなたを確かめているんです」
抱きしめる腕の力を緩めることもなく、高耶の肩口に額をつけて、直江は大真面目に言った。
男以外には、決して見せることのない、蟲惑的な女王の笑で、高耶が笑う。
「監察医に言われるとゾッとしねえな。オレはおまえに、解剖されるのは嫌だからな?」
「それは残念ですねぇ」
男は悪戯そうに、
「ベッドの上での解剖なら、いくらでもしてさしあげるのに。メスの変わりに玩具を使って。あなたのどこをどうしたら、いちばん感じるか……なんなら、今すぐ試してみますか?」
高耶はカッと赤くなる。
「ばっ……ひとが黙ってりゃ調子にのるんじゃねえよ、この変態!」
「おやおや。いつも、その変態に抱かれて、気持ちよがる誰かさんは、いったいどこの誰でしょうねぇ」
真赤になって、男の頭を殴りつけようとした腕は、あっさりと捕えられてしまった。
「放せ、この馬鹿力!」
「嫌です」
じたばたと暴れる体を、直江は当然の権利のように抱きしめる。元々、本気で抗うつもりのない体は、やがて観念したように、大人しく男の胸に収まった。
「高耶さん……」
「………」
二人の間に、優しい沈黙が流れ、やがて、男は静かに口を開いた。
「あなたの眼に、もし、死者の魂ではなく、生きている人間の魂が見えたなら、どれだけ私の魂が、仰木高耶というひとを愛し、欲しているか、あなたにわかってもらえるのに」
小声でバカ、と呟く高耶に、
「……愛していますよ。高耶さん」
照れくさいのか、不貞腐れてそっぽを向いている、いとしいひと。
「今日はもう遅い。いろいろあったから、あなたも疲れているでしょう。何もしないと誓いますから、ベッドに行きませんか?」
そこで、直江はまた、悪戯そうに付け加えた。
「……ですが、医学的には、疲れている時にするのは案外、イイらしいですよ。一緒に、臨床実験しませんか?」
高耶は枕代わりにしていたクッションを、男に向かって投げつけた。