「song of takaya」



part 1

「―――サン。直江サン!」

意識が戻るなり、男の耳に飛び込んできたのは、かろうじて人の声だと認識できるものの、何かのフィルターを通したような、酷く耳障りなノイズ混じりの音声だった。

悲鳴や雑音が入り混じったような、形容しがたい不快な音声を、それ以上聞いているのが耐え難く、男は必死にやめてくれと訴えたが、実際には、呼吸器をつけられた喉奥から、かすかな呻きが零れただけだった。


「―――ウ……、」
「直江サン。気ガツキマシタカ?私ハ『医者』デス。ココハ『××大学病院』デス。―――私ノ言ウコトガ、分カリマスカ?」
「………」
病院―――その単語の意味を理解するまで、男は、僅かな時間を費やした。

(びょういん……)
(ああ。ここは、『病院』なのか)

自分はいったい……どうしてしまったのだろう。
無意識に起き上がろうとした途端、頭が割れるように激しく痛んだ。起きるどころ指一本動かすこともできず、眼も見えない。

「無理シナイデ。―――アナタハ『事故』ニ遭ッタンデス」
(事故――…?)
(………ああ)
ようやく、不鮮明だった記憶がはっきりしてきた。
(そうだった。俺は―――事故に遇った)


***


久しぶりに家族揃って外食でもと、父の運転で行きつけのレストランに向かう途中のことだった。
対向車線をはみ出して、こちらの車へ突っ込んでくる一台のトラック。

その時、男は携帯にかかってきた友人と通話中で、決定的瞬間は見ていなかったが、直前に耳にした両親の悲痛な悲鳴と、凄まじい衝撃だけははっきりと覚えていた。

運転していたトラックの運転手は居眠りをしていたらしく、両親ともに即死。
後部座席にいたことで、かろうじて死を免れた男は、すぐに地元の大学病院に緊急搬送されたが、全身数箇所に及ぶ骨折と、なにより頭を強く打ったことで、脳に重い損傷を受けていた。

生涯、寝たきりにもなりかねなかった男を救ったのは、この大学病院の脳外科医が提唱する、かつて前例のない硬膜下血腫の手術だった。
いわば合意なしで、新たな術式の実験台にされたようなものだが、その甲斐あってか、男は奇跡的に一命を取り留めた。


数日後、ICUのベッドで意識を取り戻した時―――男の視界は、血と錆と肉塊をぶちまけたかのような、異様な世界へと化していた。
手術の後遺症により、命と引き換えに男は、視覚と聴覚に取り返しのつかない深刻なダメージを受けていたのである。

医師や看護師だけでなく、目に入るものすべてが、この世のものとは思えない異形へと姿を変え、耳にする音すべてがとてつもなく耳障りなノイズや悲鳴となって、男の耳に飛び込んでくる。

己の身に何が起きたかわからず、男はそれから一週間、病室のベッドで狂ったように叫び続けた。



―――地獄のような日々が過ぎ、骨折や打撲などの肉体的な傷が癒えた頃、男はひっそりと脳外科病棟から療養病棟へ移された。

その頃には、自分の脳が事故と手術で受けたダメージによって、なんらかの知覚障害を起こしてしまったのだろうと、おぼろげに理解できるまでになっていたが、医師にその事実を訴える気力すらなく、男は一日、ベッドに横たわり、虚ろな視線を泳がせているだけだった。


***


療養病棟の個室に移されて数日が過ぎた、とある深夜のことだった。

白いカーテンが引かれたベッドの上で、眠りに逃げることも叶わず、生きた屍のように横たわっていた男は、ふと、病室のドアが音もなく開くのを感じた。

こんな時間に病室を訪れるのは、医師か看護師だけのはずだが、なぜか相手はなかなかこちらに来ようとしない。

見回りにしては様子がおかしい―――怪訝に思った男は、音のする方に虚ろな視線をめぐらせた。

カーテンの向こうで、躊躇うような気配を見せていた相手が、意を決したように、そっとこちらを覗き込む―――
互いの視線がかち合った刹那、男の双眸が驚きに見開かれた。

「―――!」

一瞬、声が出なかった。
なぜなら、眼に見えるものすべてが異形と化した男の世界で、「普通の人間」に会えたのは、事故以来、はじめてだったからだ。

どうやらその相手は、男がこんな時間まで起きているとは思わなかったらしい。
驚いて、慌てて逃げかける背を、男は無我夢中で呼び止めた。
「―――待って!」

弱りきった自分のいったいどこに、こんな声を出す力が残っていたのだろう。
男は、必死に声を振りしぼり、衰弱の為、思うように自由にならない腕を、そのひとに向けて伸ばした。

「待って―――下さい……どうか」
―――行かないで……。
「………」
切羽詰まった男の声を耳にして、カーテンの向こうで相手は驚いたように立ち止まった。
どうにか、その場に引き止めることに成功した男は、尚も必死に言葉を紡いだ。

「……私はこのとおり、動けません……なにもできやしないから……ここに来て、顔を見せてくれませんか……」

相手は尚もしばらくの間、逡巡するそぶりを見せたが―――やがて、そっとカーテンを引いて、男の前に姿を現した。



血と錆に覆われた、気がふれそうな視界の中で、白いシャツとスラックスを纏った驚くほど端正な顔立ちの少年が、戸惑うようにこちらを見ている。
男の反応を伺うかのように立ち尽くしていた少年は、おずおずとベッドサイドに歩み寄ってきた。

そうして近くで見れば見るほど、彼は美しかった。
年齢は、まだ十四、五歳だろうか。
さらっとした黒髪に細身の体。
何より印象的なのは、切れ長の双眸に二つのルビーを嵌め込んだような不思議な紅い瞳だった。


「お前。―――オレを見て、驚かないのか?」
いかにもこの少年に似合いそうな、凛とした涼やかな声で、彼は言った。
ノイズ混じりではない『普通の声』を聞くのも、あまりに久しぶりで、男は言葉もない。
少年は、再度、問いかけてきた。

「お前はオレが……怖くないのか……?」
「―――怖い?……あなたが……?」

このひとは、いったい何を言っているだろうと男は思った。怖いどころか、これほど綺麗なひとを見たのは、はじめてなのに。

男はやつれた顔に、精一杯の笑みを浮かべて、
「私の名は……直江です……。よかったら、あなたの名前を……聞かせてくれませんか」
すると彼は、戸惑いながらも、己の名を口にした。
「………高耶…。」
「―――高耶さん。……いい、名前ですね……」

男は微笑んで、力の入らない腕を尚も必死に伸ばした。
「高耶さん………無理にとは、言いません……でも……よかったら……手を」
「……え?」
「手を。……握ってくれませんか……」


自分を見て驚くどころか、触れたいと言う男に、高耶は心底驚きを隠せなかったが、衰弱しきった男の願いを無下にもできず、高耶はベッドに臥せる男の、己に向けて差し出された手のひらに、自らの手をそっと重ねた。

大きな男の手が、高耶の細い手を包み込む。
「………ああ」

眼を閉じた男の喉から、無意識に声が零れた。
悪夢のような日々の中で、久しぶりに触れた、ひとの手のぬくもり―――男は自分が今、泣いているのを悟った。

男の眼元に光るものを認めて、高耶は、また驚いたように、
「おまえ―――泣いてるのか……?」
男は、ただ、静かに涙を流すしかできない。

男の涙を目にし、その手に触れたことで、高耶の中にも、それまで感じたことのない感情がこみ上げる。
怖くなって、高耶は、不意に手を離した。
突然、振りほどかれた手に、慌てて眼を開けた男が、何かを言いかけたが―――

「オレ……。もう、行かなきゃ」
自分に言い聞かせるように言って、逃げるように出て行きかける細い背に、男は声を振りしぼった。

「高耶さん…!」
名前を呼ばれて、高耶はびくりと立ち止まった。
「………、」
「明日―――また明日。……会いに……、来てくれますか?」

真摯な問いかけに、振り向いた高耶は、躊躇いながらも小さく頷いて、ドアの向こうに消えた。


***


翌日、男は一睡もできぬまま、ひたすら夜の訪れを、高耶が再び会いに来てくれるその時を待った。
だが、深夜を過ぎても、なかなか高耶は現れなかった。
(―――高耶さん)

心の中で高耶の名を呼び―――もう逢えないのかと絶望しかけた頃、静かに病室の扉が開く気配がして、カーテンの影から、高耶がそっと顔を覗かせた。

「高耶さん……!来てくれたんですね……」
歓喜のあまり、声を上げて無意識に手を伸ばしかけ、男は慌てて、自らの手を引っ込める。

「すみません……もう、来ては下さらないかと……思っていたものですから……ありがとうございます、高耶さん」

やつれた顔で精一杯微笑み、感謝を告げる男の傍らに、おずおずと歩み寄ってきた高耶は、昨日と同じ言葉を、もう一度、念を押すように問いかけた。

「……直江って言ったよな。―――お前、本当にオレのこと、怖くないのか…?」
「怖い……あなたが……?」
何故、そんなことを訊くのですか?と、問いかける男に、高耶は口ごもる。

「……変なやつ」
やがて、照れ隠しからか、そんな言葉が自然と口をついて出たが、そう呟いた高耶の表情は、心なしか、和んだように見えた

男は、高耶に気になっていたことを問いかけた。
「……高耶さん。……あなたも、ここに、……この病院に、入院して…いるのですか?」
「オレ?……オレは、この病院に住んでる。父が……。ここの教授だったから」

すると男は、心底、安堵したような笑顔を見せた。
「そうだったんですか……よかった」
「……?」
「あなたも、どこか具合が悪くて、入院しているのではないかと思ったものですから……」

微笑む男に、高耶は眼を伏せて、
「………父は、半年前、この大学病院内で失踪したんだ。だからオレは、毎日ここに来て、父を探してる」
「それは、…すみませんでした。悪いことを……聞いてしまって……お父さん……早く見つかるといいですね……」

すまなそうに謝る男に、高耶は微笑して
「……いいんだ。それより、お前のことを聞かせてくれよ」

男は、自分が二ヶ月前に事故に遭い、この大学病院で脳外科手術を受け、今はこの病棟に移されたことなどを話っ
た。
「―――そうか…お前。事故にあったのか……」

本当は、この男が事故で搬送されてきたことはとっくに知っていたけれど、脳外科手術を受けたと聞かされて、高耶はようやく納得した。

おそらくこの男は、脳に重大なダメージを受け、視覚に異常をきたしてしまったのだろう。
でなければ、自分を見て、平然としていられるはずがないのだから。



それから高耶は、夜毎、看護師達の目を盗んでは、男の病室に姿を見せるようになった。
高耶自身、もっとこの男のことを知りたいと思ったし、なにより男が、逢いたいと強く望んだからだ。

高耶と言う『普通の人間』に出会え、言葉を交わすことが、おそらく精神的な救いとなったのだろう。
あれほどまでに絶望し、衰弱しきっていた男の体調は目に見えて回復し、やがて男は、自力で起きて歩けるまでになった。

言葉に出さなくとも、互いが互いを特別な存在として認識するまで、そう時間はかからなかった。
たとえ、高耶の存在が明るみに出たとしても、もはや磁石の両極のように引かれ合う彼らを、止められる者などいなかっただろう。


***


一月後―――いつものようにベッドに腰かけ、高耶の訪れを今か今かと待っていた男は、高耶が顔を見せるなり、自分の隣に座るよう促した。

「……高耶さん。今日は大事な話があるんです」
「……なに?」
「高耶さんは、お父さん以外には、身寄りがないと言っていましたね」
「えっ…、まあ……そうだけど」

曖昧に言葉を濁す高耶に、男は、
「実は明後日―――退院できることになったんです」

『退院』と言う言葉を聞いて、高耶は一瞬、声を失った。
祝福すべきなのに、その言葉が出てこない。

ここ数週間の男の回復ぶりは、誰の目にも明らかで、高耶にとっても喜ばしいことだったが、それは同時に男との別離を意味していて―――いつかこの時が来ることはわかっていたが、まだ先のことだと自分に言い聞かせてきただけに、やはり、ショックだった。

「―――そうか……よかったな」

ようやく高耶が己の口から、その言葉を搾り出した時、男が告げたのは思いがけない言葉だった。

「高耶さん―――私と一緒に、来て頂けませんか?」
「えっ……、」
あっけに取られる高耶に、男は微笑んで、
「……私にも、もう、家族はいません。家はここからそう遠くはないですし、部屋はいくつもあります。……二人だけですから、なんの気兼ねもいりませんよ。お父さんを探すなら、私も手伝いますから」
「直江……っ、」
「高耶さん、私はあなたを」

だが、高耶は男のその先の言葉を遮るかのように首を振った。
本当にこの男を思うなら、これ以上、一緒にいてはいけないことを、高耶は十分理解していた。


「お前の気持ちは、嬉しいけど、……オレは……お前とは暮らせない」
男は静かに問いかける。
「―――なぜ駄目なのですか?私のこと。……嫌いですか」
「そうじゃない……でも、駄目なんだ。オレは……、」

そう言ったきり俯いてしまう高耶を、男は不意に己の方へと引き寄せた。

長い闘病生活で、男はかなり痩せてしまってはいたけれど、それでも高耶に比べれば、はるかに立派な大人の体躯が、細い体を有無を言わさず抱きしめる。
「―――直江…ッ」
逃れようと抗う耳朶に、男は告げた。

「……愛しています、高耶さん」
「駄目だ直江…っ、離し、」
「聞いて下さい、高耶さん。私は……」

―――私は、自分の症状がどういうことか、理解しているつもりです。

その言葉を聞いた途端、男の腕の中で、高耶は冷水を浴びせられたかのように、ぎくりと身を竦ませた。


普通の人間が『異形』に見え、高耶だけは『普通』に見える。
それが暗に何を意味するか、すべてを理解した上で、男は、高耶に愛していると告げたのだ。

「……お前……、」
まだ表情を強張らせたままの高耶に、男はいとおしげに微笑んで、
「でも、だからと言って、誤解しないで欲しいんです。私は自分がこうなってしまったから、あなたを好きだと言っているんじゃない。あなたと逢えて……あなたと言うひとに……あなたの魂に惹かれたから―――傍にいてほしいと思ったんです」

「……直江……ッ、」
男は茫然としている高耶を抱く腕に力を込めた。

「高耶さん。私と一緒に、来てくれますね……?」
「オレ…、は……」
尚も躊躇う高耶の唇に、もうそれ以上何も言わなくていい、言わせないとでも言うように、男は自らの唇を重ねた。
「…………ッ!」
きつく抱きしめられ、この思いは嘘ではない、信じてほしいと訴えるかのような、真摯な口付けに、高耶はもう、それ以上、抗うことはできなかった。
「なおえ……」
「―――愛しています、高耶さん」


いとしい体を思うさま抱きしめながら、男は思った。


―――狂ったこの視界が、もう二度と元に戻らなくても、あなたさえいてくれるなら、他になにも望まない。






next