完全なる飼育 2015





「introduction」



誰かに見られている―――
ふと、そんな気がして、高耶は立ち止まった。
後ろを振り向き、辺りを見回すが、そこには誰もいない。
「………?」
再び歩き出しても、その感覚は消えず、高耶はその都度、立ち止まっては首を捻った。


「―――ちゃん、お兄ちゃん!」
不意に腕を掴まれ、高耶は我に返った。
見れば妹の美弥がじっとこちらを覗き込んでいる。
「……ああ」
「どうしたの?なんだかお兄ちゃんらしくないよ?キョロキョロしたかと思えば、急に考え込んだり」
「……そうか?悪ぃ」
高耶は苦笑する。
「……で、なんかいいもん、あったか?」



今日は妹の誕生日だった。
両親の離婚により、父の元に残った高耶と母方に引き取られ、離れて暮らす妹とは、たまにしかしか会えないが、二人きりの兄妹だけに昔から仲はよかった。

この日は、ちょうど祝日と重なったこともあって駅前で待ち合わせ、久しぶりに兄妹水入らずで食事をした。

その後、なんでも好きな物を買ってやると、通りがかった店で妹がねだったのは、色違いの二本の携帯ストラップだった。

「なんだ、ストラップなんて……バイト代入ったばっかだし、せっかく誕生日なんだから、もっとイイもん買ってやるぞ?服とか」

高耶が言うと、妹は嬉しそうに、
「ううん、美弥これがいいの!お兄ちゃんとお揃いにしたいから」
「お揃いったって……オレ携帯もってねーし」
高耶は困ったように言った。

妹からも友人からも、連絡が取りにくく不便だから持つようにと、散々言われてはいるのだが、今ひとつ面倒で携帯を持つ気になれないのだ。
だが、そこで美弥は待ってましたとばかりに、抱えていたリュックからリボンのついた箱を取り出し、高耶に差し出した。

「はい、これ。美弥が選んだの。開けてみて」
「お、おい……」
中には銀色の折りたたみ携帯電話が入っていた。
「おまえっ、これ……どうしたんだよ」

戸惑う高耶に、兄っ子の妹は嬉しそうに、
「美弥がバイトして買ったんだよ。だってお兄ちゃん、こうでもしないと絶対自分から 携帯持とうとしないでしょ?」
「でもな……」
「安心して、お母さんにも相談して、ちゃんと許可もらって買ったから。お兄ちゃんとストラップお揃い。それで、時々でいいからメールして。それがお兄ちゃんから美弥へのバースデープレゼント。……ね、いいでしょう?」

真摯な妹の視線に、高耶はしょうがないな、と言うように微笑んだ。
「わかったよ……ありがとうな」



肩を並べて歩く兄妹の様子を、通りのビルの一室の窓からファインダーを通して食い入るように男が見ている。

絶え間なく切られるシャッター、印画紙に刻まれていく高耶の一瞬の表情。
フィルムをすべて使い切って、ようやく顔を上げた男は、撮影されたばかりのポラロイドの中に高耶に向かって囁いた。
「高耶さん―――もう少しでお迎えに行きますよ……待っていてくださいね」


***


妹の誕生日から数日後のことだった。

シャワーを済ませ、パジャマを羽織り、頭からタオルを被って高耶が浴室から出てくると、それを待っていたかのように携帯電話のベルが鳴り響いた。

非通知の表示に、怪訝そうに通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『―――こんばんは。高耶さん』
見知らぬ相手に親しげに話しかけられて、高耶は怪訝な顔をした。

「誰だ?」
『……私、ですよ……』
クスクスと笑う相手に、高耶は苛立つ。
「オレはあんたなんか知らないぜ?……だいたい、なんでこの番号を知ってる」
『私は知っていますよ。あなたのことなら何でもね』
(……っだよ。せっかく風呂入ってすっきりしたとこだってのに。変態ヤローの悪戯電話かよ)

心の中で悪態をつき、冷蔵庫を開けながら、
「あのなー、どこの誰だか知らねーけどな。オレはあんたの悪戯につきあっている暇はねーんだ。切るぜ」
そうして、缶ビールに伸ばしかけていた手は、男の次の言葉でびくりと止まった。

『駄目ですよ。未成年のくせに』
驚いて、手にした携帯を取り落としそうになる。

咄嗟に背後を振り返り、辺りを見回すが、無論、静まり返ったダイニングルームには高耶の他に誰もいない。
それなのに、見られている―――?

「てめえっ……、」
男がクスクスと笑った。
『あなたのことなら、何でも知っていると言ったでしょう?……ねえ、高耶さん。昨日の夜、一人遊びをしましたね。ベッドの壁に寄りかかって、膝を立てて脚を開いて、ぼうやを一生懸命擦って。しろいのをいっぱい出していましたね。とっても綺麗でしたよ。……気持ちよかったですか?』
「なっ……、」
突然、覚えのある行為を指摘されて、高耶の顔が見る間に真赤になった。

それは夜更けのこと。当然、部屋の窓もカーテンも締め切られていたし、高耶の年代であれば、誰でもしている行為。
自室での密やかなその行為を、この男はなぜ知っている?

男は尚も囁く。
『あなたのイク時の顔、初めて見ましたよ。三日前にした時はお布団の中でしたから、残念ながらイク時のお顔が見れませんでしたからね……あなたのことだから、きっと綺麗だろうと思っていましたが、想像以上に綺麗でしたよ』
男がデタラメを言っているのではないことは、覚えのある高耶自身がいちばんよく知っている。

「………ッ、」
真赤になって携帯を握り締めたまま、言葉も無い高耶に、
『……プレゼントがあるんですよ、高耶さん。ドアポケットを見てみて下さい。きっと気に入りますよ』
『どうしたの?早く見て』

おずおずと玄関に向かい、ドアポケットを覗くと、一通の封筒が投函されていた。
『仰木高耶様』と印刷された宛名以外は何も書かれていない白いその封筒から出てきたのは、紛れもなく、昨夜、自慰をしている時の自分が写った写真の束だった。

ビデオカメラで撮影されたものを印刷したらしく、撮影時刻が秒数まで記録されている。
あまりのショックに束を取り落とし、音を立てて玄関中にあられもない自分の姿が散らばる様を、高耶は悪夢のように見た。

『……とっても綺麗に撮れているでしょう。気に入ってくれましたか?』
男がうっとりと囁く、
『ご自分のイク顔をはじめて見た感想はいかがですか?』
「て、め……っ、」
『……怒ったんですか?喜んで頂けると思ったのに……それより、写真、そのままにしていていいんですか?』

高耶は怒りと羞恥で顔を真赤にしながら、できるだけ写真を見ないようにして一気にかき集め、再び封筒に突っ込んだ。
こんなもの、やたらと捨てられない。

男は尚も囁く。
『ねえ、高耶さん……写真だけでは物足りないのではありませんか?きっとそういうと思ったから、ビデオも用意しておいてあげましたよ』

男がそう告げるのと同時に、突然、流れはじめた聞き覚えのある声に、高耶は弾かれたようにリビングへ駆け込んだ。


リビングに、つけた記憶のないテレビがついている。
スピーカーから流れる大音量の吐息とともに、画面に映し出されていたのは、写真と同じ昨夜の自慰の様子だった。

白いパジャマ姿の自分がベッドに寄りかかり、立てた膝をあられもなく開いて、屹立したものに己の指を絡めている。
高耶はあまりのショックに凍りつき、ビデオの電源を切ることもできずにその場に立ち尽くした。

ふいに、画面の中の高耶の呼吸が激しくなった。
喘ぎながら、きつく握り締めたものをひときわ激しく上下する。
画面の中の高耶は、背を大きく仰け反らせ、『出るっ…、』と言う吐息のような声とともに果てた。

「―――…ッ、」
刹那の快楽に浸る自分の虚ろな目と、呆然と立ち尽くす高耶の視線が一瞬、かち合う。。
次の瞬間、ようやく我に返った高耶は、真赤になってテレビのコードを引き抜いた。
ブツッ、と言う無機質な音とともに、室内には静寂が戻った。



「―――畜生ッ!」
高耶はビデオデッキから取り出したテープを引っ張り出してぐしゃぐしゃにした。
写真の束はテープルの上の、ガラス製の大きな灰皿に封筒ごと突込み、震える手で火をつける。
封筒はたちまち燃え上がって、一瞬、大きな炎となったが、すぐに灰皿の中で黒い灰となって燃え尽きた。
羞恥と、得体の知れない相手への怒りと恐怖で言葉にならない。


再び、電話の向こうから男が囁いた。
『せっかくあげたプレゼントをそんなにして……気に入いりませんでしたか?それとも、照れているんですか?あなたは、とても恥ずかしがりなひとだから。でも、心配しないで。写真もビデオも、いくらでもコピーできますからね』
「なん、の……つもりだ、てめえッ!なんで、こんなこと……っ、」

叫びかけて、高耶はそれどころではない、もっと重要なことにようやく気づいた。
何よりも、このビデオがセットされていたと言うことは、相手は今、この家のどこかにいるということではないか。


そして高耶は狂ったように家中の戸締りを確かめはじめた。
玄関の鍵はかかっていたが、チェーンがかかっていないことに気づいて、慌ててドアチェーンをかける。
他の部屋も、トイレもバスルームも、仕事で家を空けている父の部屋までチェックして回ったが、何処にも変わった様子はない。
男が楽しそうに言った。


『―――そう、とってもいいことですよ。そうやって戸締りを確かめて、身を守らないとね……あなたは、とても綺麗だから。学校でも外に出ても、みんながあなたを狙っていますよ』
「ふざけるな!」
高耶は叫んだ。どうしてかはわからないが、自分のやることすべてを、間違いなく見られている。

『―――お友達の××君』
不意に、とある同級生の名を呼ばれて、高耶は面食らった。なぜ、この男が、そんなことまで知っているのか。

『……交通事故にあったそうですね。気の毒に』
言葉とは裏腹な穏やかな口調に、高耶の全身の血が冷たくなった。

××というその同級生は、高耶が通う男子校特有のものか、何かにつけては高耶につきまとい、先日の修学旅行先では、なんと高耶を呼び出し、力づくで襲おうとした。
腕に覚えがあるおかげで難は逃れたものの、この同級生は就学旅行から戻った直後に交通事故に遭い、今も退院できずにいる。



「………ッ、」
『……高耶さん?どうかしましたか?
』何か言いかけたが、言葉にならない。得体の知れないこの男が、心底恐ろしくなった。

「……あんた。いったい、何が目的だ?」
喉奥からようやく搾り出した声は、とてもいつもの高耶の声とは思えないほど掠れ、震えていた。

『……目的?そんなの、わかっているくせに』
男は、苦笑したように言う。
「わかんねーよっ!なんでこんなことすんだよっ!あんな……ビデオなんか録りやがって……汚ねー手使いやがって!オレに用があるんだったら、電話なんかしてこねーで顔見せやがれっ!」
激昂し、叫ぶ高耶に、
『……そうですね。それでは、今すぐお迎えに行きますよ』

男が笑い―――その直後、高耶の背後でクロゼットの扉が音もなく開いた。
気配を感じて、その場に凍りついたように動けなくなった細い体を背後から抱きしめ、男は甘く囁く。

「―――こんばんは。お迎えにあがりましたよ、高耶さん」



勝負は、あっけないほど一瞬でついた。
悲鳴を上げて振り向きかけた口元に、何かの薬剤を染み込ませたガーゼが背後からきつく押し当てられた。
「………ッ!」
呼吸を求めてもがく度、鼻からも口からも薬剤を吸い込んで、高耶の体から一気に力が抜けていく。
やがて、ぐったりと大人しくなった体を男は仰向けにし、ソファに横たえると上半身を抱き起こした。



高耶の瞳は虚ろに見開かれている。
その唇は、何か言葉を発しようと微かに動くが、無論、声にならない。
滑らかな頬の感触を確かめるように、何度も指先で辿り、感嘆の吐息を漏らした男は、その瞳に向かってにっこりと微笑んだ。

「思った通り―――あなたはとても綺麗だ。それにあなたの体は、パジャマの上からでも、とても熱い……」
そこまで喋って、男はふと気づいたように苦笑して、
「ああ、一応、『はじめまして』でしたね……あなたにようやく触れられて、嬉しくて。私は直江と言います。高耶さん、生きたお人形になった気分はいかがですか?」

男の言うとおり、高耶にははっきりとした意識があった。
体はまったく動かせないが、霞む視界に黒いコート姿の驚くほど端正な顔をした男が映っている。

男は、高耶の意識があることをわかって話しかけているようだった。
「体が動かなくて不安かもしれませんが、でも今だけだから心配しないで。これからあなたの新しいおうちに連れていってあげますからね。きっと気に入りますよ。そこで、あなたを飼育します。死ぬまで可愛がってあげるから。……大丈夫、怖くない」

男は愛おしげに滑らかな頬を撫で、
「ちょっと待っていて下さいね」
と囁いて高耶をソファに横たえると、コートのポケットから黒い皮の手袋を取り出して両手に嵌め、高耶の自室に向かった。

ソファに一人残された高耶は、床に向かって投げ出された指先に触れているものが、さっきまで自分が握り締めていた、妹からプレゼントされたあの携帯電話だと知って、どうにかそれを拾い上げ、助けを求めようとしたが、薬を嗅がされた体は、指一本動かすどころか呻き声ひとつ上げることすらできなかった。


男は五分ほどで戻ってきた。
「すみません。待たせてしまいましたね……あなたのお部屋にセットしたビデオカメラを外してきましたよ」
こともなげに笑い、自らが着ていたコートを脱ぐと、パジャマ姿の高耶をすっぽりと覆うように包み込む。

「外は寒いですからね。あなたは風邪をひきやすい体質のようだから、気をつけないとね」

男は子供をあやすように優しく囁く。そして、
「これも忘れてはいけませんね」
と、高耶が封筒を燃やした灰皿を取り上げて灰をキッチンの流しに捨て、水でゆすいだ灰皿を元通りテーブルに戻し、ぐちゃぐちゃになったビデオテープを高耶を覆ったコートのポケットに仕舞い込んだ。

いとしい体を大事そうに抱き上げ、頬に軽く口付けて男が微笑む。
「さあ、帰りましょうね」



男はコートでくるんだ高耶を抱いたまま、ホールへ出た。
エレベーターに乗り込み、地下駐車場に向かう間も、高耶にとっては不運なことに、誰とすれ違うこともなかった。

ようやく手に入れたいとしい体を助手席に座らせ、男は悠々と運転席に乗り込む。

高耶を乗せたウィンダムは、滑るように走り出した。