六月の蛇 mira vervion 3
―――都内某所。とある外資系製薬会社の研究室。
人気のないフロアのデスクに突っ伏していた橘義明は、ハッと我に返った。慌てて時計に目をやると、深夜零時を回っている。
同僚に、「今日も泊まるのか?」と半ばあきれたように声をかけられ、見送ったのが午後七時過ぎ。
そろそろあのひとが仕事から帰る頃だから、電話を入れようと思い、ついでにコーヒーをと、席を立った後の記憶がない。
うっかり、眠ってしまっていたのだろうか?
(こんな時だというのに、俺はいったい、何をやっているんだ)
実はこうした経験は、これがはじめてではなかった。
このところ、義明には眠るつもりがないのに眠ってしまったり、気がつくと数時間程度、記憶がぽっかりと抜け落ちてしまっていることがあった。
特にこの数日はそれが激しく、酷い時は半日程度、記憶がない場合がある。
この半年というもの、ろくに睡眠もとらずに研究室に詰めているから、疲労が溜まっているせいだとは思うが………あまりの己の不甲斐なさに、義明は彼らしくもなく舌打ちした。
それより、あのひとにせめて「今日も帰れそうにない」と侘びの電話を入れるつもりだったのに、それすらできなかった。
高耶とて、仕事を持つ身だ。この時間では、もう眠っていることだろう。
うっかり電話して、起こしてしまってはかわいそうだ―――義明は心の中で詫びた。
(高耶さん………すみません)
いつも出かけに見せる、高耶の淋しげな笑。一人にさせてすまないと思ってはいるが、今はこうするしかなかった。
高耶を救えるのは、この自分しかいないのだから。
義明は心を鬼にして、再び、顕微鏡に向かった。
そして、それから更に十日が過ぎたある日。
高耶がこの病に罹ったことを知ったあの日から、心血を注いでようやく完成にこぎつけた試薬を前に、義明は体の震えを抑えることができなかった。
時間との戦いだった為、ろくに自宅に戻ることもできず、そのせいで高耶には随分、淋しい思いをさせてしまったが、うまくいけば、これであのひとを救うことができる。
幸い、高耶にまだ発病の兆候はない。
(大丈夫だ、落ち着け―――絶対にうまくいく………)
祈るような思いで、義明はこの病をもたらすとされるウイルスを培養したシャーレに試薬を落し、顕微鏡を覗き込んだ。
―――数時間後。
魂を抜かれた抜け殻のように、義明は力なくデスクの椅子に沈んでいた。
彼が全身全霊を注ぎ込み、つくり出した試薬は、ウイルスの活動を、一瞬、遅らせることができたものの、それだけだった。
義明が見ている前で、ウイルスは再び、活発に動き始めた。
一からデータを集めなおし、新たな試薬をつくりあげるには、最低でも更に数年はかかる。それではとても間に合わない。
(………高耶さん………)
無人の研究室に、男の慟哭が響いた。
***
満月の下、高耶はサンルームのベンチであられもない姿を晒していた。
義明は相変わらず自宅に戻らず、ついには電話すらかけてこなくなった。
自分は捨てられたのだと、高耶は思った。
子供の頃、母親に捨てられた自分。
愛する者に去られるのは、もう二度と嫌だったのに。
義明の口から、決定的な言葉を聞きたくなくて、自分から義明の会社に電話することもできなかった。
代わりに、直江が毎晩のように電話をかけてきては、高耶に自慰を命じた。
もはや抗う術もなく、高耶は自らの手で、泣きながら玩具を飲み込んだ。
直江が、インカムの向こうで囁く。
『綺麗ですよ………高耶さん』
「………アア………」
直江は、いったい何処から、自分のこの姿を見ているのだろう。
目を閉じて、ただその声だけを聞いていると、まるで義明に抱かれているような気がして、高耶の唇から切ない吐息が零れた。
「―――なおえ」
『……なんです?』
「お前………義明を………知ってるって………言ったよな………」
『………ええ』
「どうして………義明は………オレを捨てたんだ………?」
すると直江は、めずらしく強い口調で言った。
『彼はあなたを捨ててなんていませんよ。いったいどうして、そんな風に思うんですか?』
「捨てたんだ………あいつは………オレを抱く時………いつも………綺麗だって言った………さっきのお前みたいに………」
『………』
「でも、オレは………ちっとも………綺麗なんかじゃない………いまだって………こんな玩具でよがってる………欲求不満の淫乱だ………義明は………きっと気づいたんだ………オレの本性に………」
『………高耶さん』
痛ましげに自分を呼ぶその声。
まるで義明に呼ばれたような気がして、高耶の双眸から涙が零れた。
どうして―――この男の声は、こんなにも義明に似ているのだろう。
だが、高耶とて多少なりとも心理学を学んだ身だ。
直江と話していると、口調も言葉遣いもどれほど酷似していても、直江が義明とは明らかに違うパーソナリティだとわかる。
義明を陽とするなら、直江は影だった。
『高耶さん………義明はあなたを誰よりも愛していますよ。捨ててなんていない』
根気よく、諭すような言葉に、高耶は子供のように叫んだ。
「じゃあ、なんであいつは………オレを抱かない?なんでオレを……ッ、」
啜り泣く高耶に、インカムの向こうで直江はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
『………あなたは、彼を本当に愛しているんですね………』
そして、自嘲するように、
『いえ、そんなことは、今更でしたね。あなたが義明を心から愛していることは、最初からわかっていた』
「……なおえ?」
『………俺は義明がうらやましかった。こんなにもあなたに愛されている彼が。つまらない嫉妬から、あなたにはいろいろとつらい思いをさせてしまいましたね。そのことを、申し訳なく思っています』
高耶には、直江が言う言葉の意味がわからない。怪訝そうな高耶に、直江はもう一度、力づけるように言った。
『高耶さん………愛しているなら、彼を信じなさい。もうすぐ彼は、あなたの元に戻ってきますよ』
「嘘だ………ッ!」
喘ぎ、啜り泣きながら高耶は言った。
「慰めなんて………いらねえ………オレは、………ウ、………ア………ッ」
絶望の中で、玩具による強制的な絶頂を迎えた高耶の楔からしろいものが迸り、力の抜けた体から、うねうねと蠢く淫らな玩具が抜け落ちる。
「ヒッ………クッ、―――うあああ………」
胸が締め付けられるような痛ましい慟哭に、直江はしばらく無言だったが、やがて、意を決したように口を開いた。
『真実を知ればあなたは傷つく………でも、このままでは、あなたは駄目になってしまう………隠していても、いつかはわかることだ。―――優しすぎて義明には言えない。俺は、彼の代わりに、あなたにこのことを告げる為に生まれてきたのかもしれない。―――つらい役回りですが、仕方ありませんね』
「お、まえ………何言っ………」
『高耶さん………明日、今まで撮った写真とネガを返します。もう二度とあなたに迷惑はかけない。誓いますよ。それから………義明は必ず帰ってきます。だから、心配しないで』
「―――なおえ………?」
『許して下さい………』
そして、男ははじめて高耶のオフィスに電話してきたあの時のように、苦しげな声で、以外な言葉を告げた。
「高耶さん………明日。………病院に行って下さい」
唐突に電話は切れ、携帯がもう二度と鳴ることはなかった。
***
翌朝、高耶は直江に言われた通り、近くの医院を訪れた。
血液検査の結果、すぐに大学病院で精密検査を受けるよう紹介状を渡され、訪れた病院でついに自らの病を知った高耶の元に、直江から小包が届いた。
封を開けると、中身はすべて高耶を写した、膨大な数の写真とネガだった。
日常、ふとした瞬間に見せる何気ない笑顔から、あられもない姿まで―――これまで直江が撮った高耶のすべてがそこにあった。
そして、添えられていた便箋に綴られた、見覚えのある文字が語る衝撃的な内容。
ようやく高耶は、真実に思い当たった。
***
研究室のトイレの鏡に、見る影もないほどにやつれ、変わり果てたよれよれの白衣姿の男が映っている。
―――我ながら、酷い顔をしていると、義明は自嘲気味に嘲った。
義明がこの試薬の開発にすべてをかけていたことは周知の事実である。
そのあまりの落胆ぶりに、同僚達もかける言葉すら見つからないようだった。
あれから、自宅には一度も戻っていなかった。高耶の声を聞くのがつらくて、電話すらしていない。
(………高耶さん………)
最愛のひとの命すら救えない―――無力な己に吐き気がする。
鏡の中で、惨めな姿を晒している己に向かって、義明は拳を突き立てた。
派手な音を立てて、鏡が割れ、無残に飛び散った欠片とともに、裂けた右手から鮮血が飛び散る。
―――その時だった。
「………無様なものだな」
不意に冷ややかな、嘲るような声がして、義明はハッと背後を振り返った。
だが、無論そこには自分以外、誰もいない。
「あのひとの命を救えず、自宅にも戻らず、電話すらしない。いつまでそうやって逃げている?」
再び、声がした。
「誰だっ!」
義明は叫んで、周囲を見回した。
「何処を見ている。………俺はここだ。お前の中にいる………わからないのか?」
「―――ッ!」
義明は、声にならない声をあげ、自らの口元を抑えた。
喋っていたのは、彼自身だったのだ。
割れた鏡に映る己の唇が、意思と関係なく、言葉を紡ぐ。
「………お前は、あのひとがこの病に罹ったことを知った時から、心の奥で、自分がおそらくあのひとを救えないことを知っていた。―――俺は、あのひとをなくすかも知れないという恐怖から、お前の心が生み出した、もう一人のお前だ。………思い出せ」
そして、義明の中に、自分が「直江」として動いていた時の記憶が、一気に流れ込んできた。
隣接するマンションの階段に潜み、命令通りに自ら玩具を銜え、泣きながら自分の名を呼ぶ高耶に向けて、夢中でシャッターを切ったあの瞬間。
自分は捨てられたのだと、泣いていた高耶。
あんなにもあのひとは、自分を愛してくれていると言うのに………。
直江は義明に向かって、無情に告げた。
「お前があのひとを愛しているように、俺もあのひとを愛している。このまま、お前があのひとから逃げるなら、今すぐ、俺がこの体を奪ってあのひとの元へ行く」
義明は彼らしくもなく、激昂して叫んだ。
「駄目だ………そんなことはさせない!あのひとは俺のものだ―――絶対に渡さない!」
その優しさと弱さゆえに、これから発病し、日に日に弱っていくだろう愛しいひとを見るに忍びなくて、違う人格を己の中に生み出してしまった「義明」と、彼の苦悩を受け入れる為に生まれた「直江」が、義明の中で激しくぶつかりあい、やがてひとつに融合する。
―――それから、どのぐらいの時間が経っただろうか。
鏡の破片で傷ついた右手からの出血で、白衣を血に染め、壁にもたれかかるように崩折れていた義明がようやく目を開けた。
立ち上がった男の顔は、あきらかにそれまでとは違っていた。
懊悩の果てにすべてを受け入れ、覚悟を決めたような表情で、男は研究室を後にした。
***
この日の夕方、病気を理由にオフィスに退職願を出し、自宅へと戻る途中、高耶は通りがかる人々が皆、驚いたように自分を振り返るのに気がついた。
夕食を買おうと立ち寄った店では、レジを打とうとした店員が、高耶を見るなりヒッと悲鳴をあげた。
店内に張られた鏡に映る己の姿を見て、高耶はすべてを悟った。
湯を張ったバスタブに沈む高耶の端正な顔には、これまでの苦悩はない。
もうすぐ、あいつが帰ってくる―――薄い笑すら浮かべ、高耶はバスタブから立ち上がると、浴室の鏡に見入った。
今朝、起きた時はなんでもなかったのに―――知らぬ間に、両目が真紅に染まっていた。
よりによって、病を知った途端、発病するとは、皮肉な話だ。
余命わずかと宣告されて、ショックじゃないと言えば無論嘘になる。だが、今、高耶の心は驚くほど穏やかだった。
それにしても、鏡に映る自分の瞳を見つめ、ウサギのようだと高耶は思った。
確かウサギは、淋しさが募ると死んでしまうという―――まるで、今の自分のようではないか。
高耶はクスッと微笑んだ。
濡れた髪もそのままにローブを羽織、寝室のベッドに腰掛けて、ただ時が過ぎるのを待つ。
やがて、コトッという物音がして、男が入ってきた。
立ち上がった高耶がゆっくりと音のする方を振り向くと、やつれ果て、見る影もないほどに憔悴しきった男の姿がそこにあった。
愛しいひとの瞳の変化を悟った男は、一瞬、苦しげに顔をゆがめたが、高耶はそんな男を癒すように、そっと男の名を呼んだ。
「義明………」
そして、彼のもうひとつの名を。
「………なおえ………」
「高耶さん………!」
その場に崩折れた男は、菩薩のような笑を浮かべ、見下ろす高耶に縋って嗚咽した。
高耶は、慟哭する男の顔を上げさせ、その唇に自らの唇を寄せていく。
「高耶さん………高耶さん………!高耶さん………!!」
男は、壊れるほどその名を呼んで、最愛の体をベッドに押し倒すと、その唇に、首筋に、噛み付くように口づけた。
荒々しくローブがはがされ、高々と長い脚が抱え上げられるのと同時に、熱い昂ぶりが押し当てられる。
慣らしもせずに突き入れられる衝撃に悲鳴を上げながら、高耶は泣きながらも細い腕で男の胸に縋りついた。
月明かりの下で、最愛の男と交わう。
不治の病に罹った自分を救おうと奔走して破れ、ぼろぼろになった義明と、彼がその苦しみゆえに生み出してしまったもう一人の人格、直江。
今、己を抱くこの男がどちらであろうとかまわない。
「お前」を愛している―――高耶は思った。
残された時間があとどれだけあるかわからないが、自分はもうすぐ逝くだろう。
これ以上ないほど深く繫がり、愛する男の体液をその体に受け止め、自らもしろいものを放ちながら、高耶は異形と化した真紅の双眸から、静かに涙を流した。
それは悲しみの涙ではなく、ようやく愛する者と結ばれることのできた、安らぎに満ちた、安堵の涙だった。
Das Ende.
このお話は、その昔、2004年2月のオンリーに参加させていただいた際、発行したコピ本を加筆修正したものです。
私は携帯使って直江が高耶さんをいじめるシーンを好んで書くんですけど(殴v)、このお話が第一弾だったかもです(^-^;
あと、当時も書いたんですが、夫の方の名を「義明」に、鬼畜な方(笑)を「直江」にしたのは、電話ごしにいたぶられる高耶さんにひらがなモードで「なおえ」と呼ばせたかったからで、それ以外深い意味はありません(馬鹿
では、読んでくださってどうもありがとうございました(^-^;