六月の蛇 mira vervion 1
カーテンの隙間から差し込む月の光が、行為後の体を横たえ、昏々と眠る端正な横顔を照らしている。
その傍らで、最愛のひとの寝顔を見つめていた男は、静かに涙を流した。
この一週間ほど、微熱が続く高耶を心配した男は、何でもないと笑う体を、半ば強引に懇意にしている医師の元に連れていった。
嫌な予感があった。
皮肉にも男が現在、研究を任されている、とある病の初期症状に酷似していたからだ。
発病すれば確実に死に至る不治の病―――だが、このひとに限ってそんなはずがない。
ただの風邪だと、男は何度もそう自分に言い聞かせたが、数日後、男の元に届いた検査結果は残酷なものだった。
「橘高耶殿。―――陽性。半年~数年以内に発病の可能性有」
無情な文字の羅列が視界に飛び込んできた瞬間、男はその場に力なく崩折れた。
がっくりと膝をついた視界が暗くなり、全身が凍りついたようにガクガクと震え、男は両手で己の口元を押さえたが、込み上げる嗚咽を抑えることはできなかった。
数年前、偶然、仕事で訪れた土地で、まだ学生だった高耶と出会い、自分にはこのひとしかいないと戸惑う彼の元に通いつめ、強引すぎるプロポーズの果てに、ようやく結ばれた高耶と、幸せな日々が続くはずだった―――それなのに。
この病は、罹患するとまず決定的な症状が患者の瞳に現れる。
なぜそうなるのか、原因は不明だが、瞳が血の色に染まってしまうのである。
この世のものとは思えない真紅と化した瞳は、それだけでも患者に激しい精神的負担をもたらすが、無論、それだけではすまされなかった。
咳、悪寒、吐血、発熱、倦怠感………あらゆる全身症状が続く中、患者は少しづつ衰弱していき、本人の体力にもよるが、半年から一年で確実に死に至る。
死、というその言葉を、男は己の中で打ち消した。
(死なせはしない)
いとしい寝顔を見下ろし、力強く男は己に誓う。
今はまだ、病は高耶の体内に潜んでいるだけだが、一旦、発病してしまえば、病の進行を止めることはできない。
このひとを救えるのは、自分のこの手だけだ。
義明は、己の掌を握り締めた。
一日も早く、この病のメカニズムを解明し、特効薬を作り出す。たとえ、多少の副作用があろうとも、このひとの命を救えるならかまわない。
(高耶さん………)
男は、安らかな寝顔を立てている最愛のひとのこめかみにそっと口づけた。
(あなたを―――死なせはしない)
***
それから半年が過ぎた、とある日の午後八時。
いつものように仕事を終え、どしゃぶりの雨の中、一人自宅へと向かいながら、高耶は帰り際に受けた電話の相手のことを考えていた。
「………こちらは心の電話相談室です。どうされましたか?」
相手は男のようだった。
押し黙ったまま、問いかけになかなか応じようとしない男を、高耶は無闇に刺激しないよう、穏やかな口調で根気よく話しかけた。
このナンバーに電話してくるものは、大人から子供までさまざまだが、皆、心に何かしら深い傷を負っている。
藁にもすがる思いで、最後の勇気を振り絞ってかけてくる者もいる。
長い沈黙の末、男は、ひどく思いつめたような、苦しげな声でこう告げた。
『………とても………大切なひとがいるんです。でも、そのひとは、私のことを知らない。それにあのひとは、もうすぐ逝ってしまうんです………』
最初は義明の悪戯かと思った。
インカムを通じて聞こえるその声が、あまりにも義明のそれに酷似していたからだ。
だが、どう考えてもあの真面目な義明が、こんな悪戯めいたことをするとは思えなかったし、声がそっくりでも、その口調は明らかに義明とは異なっていて、まったくの別人だということがわかった。
それにしても、よく似た声の人間がいたものだと、内心驚きながらも、絶望しきった口調の男を高耶は宥め、少しでも力づけられるように、精一杯、言葉を紡いだ。
受話器の向こうで、男は黙って高耶の言葉を聞いていた。
やがて、真摯な思いが通じたのだろうか―――男は、口調を緩め、こう言った。
『あなたは………やさしいひとですね』
***
高耶は、都内のとあるメンタルケアオフィスに勤める、心理カウンセラーである。
十一歳年上の、外資系製薬会社で研究者をしている橘義明と結婚して二年。
義明の収入と資産だけでも、生涯遊んで暮らせるほどの裕福な暮らしではあったが、以前から高耶は少しでもひとの役に立つ仕事をしたいと思っていたし、外に出て働きたいという申し出を、義明は快く受け入れてくれた。
高耶が自宅に戻っても、そこに義明の姿はない。
留守電をチェックすると、うつものようにメッセージランプが点滅している。
雨で濡れてしまった上着の雫をタオルで拭いながらボタンを押すと、今夜も帰れそうにないとの、義明からのメッセージが入っていた。
最も、これは今にはじまったことではない。
多忙を理由に、半年ほど前から、義明は週の半分以上を研究室で寝泊りし、あまり自宅に戻らなくなった。
詳しいことはわからないが、とある難病の新薬の開発を任され、それに打ち込んでいるのだという。
高耶がシャワーを浴び、一人きりの夕食を済ませた時には、すでに午後十時をまわっていた。
雨は一向にやむ気配がない。
雨音をBGMに、音を消したテレビ映画の中で、男に抱かれ喘ぐ女を醒めた目で眺めながら、ソファに沈む高耶はぼんやりと思った。
義明と、こんな風に最後に体を繋げたのは、いったいいつだっただろう。
以前は殆ど毎晩のように、激しすぎる行為に泣かされていたものだったが、ある日を境に、義明は高耶に対して腫れ物を扱うようになった。
たまに早く戻ってきても、義明は高耶を優しく抱きしめ、口付けるだけで、決して体を求めようとはしない。
今時、セックスレスの夫婦は多いと聞くが、義明は本当は自分に飽きてしまっているのではないか―――高耶の心の奥に、常にその不安がつきまとっていた。
ただでさえ、自分達は同性結婚だ。本当は義明だって、この映画に出ているような女がいいに決まっている。
研究が忙しいというのは本当なのだろうか。
本当は、女がいるのではないか。
結婚前、あなただけだと言ったあの言葉は、嘘だったのだろうか………?
―――気がつくと、体が熱くなっていた。
既婚とはいえ、高耶はまだ二十二歳になったばかりである。
若い体が、意思とは関係なく、吐き出したいと悲鳴を上げている。
「ア………」
掠れた、切ない吐息のような声が、形のいい唇から零れた。
(義明………)
ソファの上で、密やかに行われる孤独なその行為を、ブラインドの隙間からファインダー越しに撮られていることを、高耶は知らなかった。
***
それから一週間が過ぎた、とある休みの朝だった。
自宅のポストに届いた、「橘高耶様」とワープロで書かれた差出人名のない白い封筒。
怪訝に思いながら封を開けると、中から出てきたのは、あろうことか、モノクロームで撮られた、ソファに凭れて自慰をしている己の写真だった。
「………!」
明らかについ先日、撮られたものだ。
たちまちカッと顔を赤くした高耶は、慌てて窓に駆け寄り、ブラインドを閉め、表に不審な者が潜んでいないか様子を伺ったが、それらしい姿はなかった。
(いったい、誰が何の為にこんなこと………!)
高耶は震える手で写真を握りつぶし、ライターで火をつけた。ガラス製のアッシュトレイの中で、一瞬のうちにそれは灰となったが、理不尽な相手への憤りは収まらなかった。
写真は、次の日も届けられた。
自の屋上の一画に設けられたサンルームで、やはり自慰をしている高耶を遠目から撮影したものだった。おそらく高性能のレンズを使用して撮ったのだろう。
屋上のサンルームは、義明と結婚してこの家に来た時から、高耶が最も気に入っている場所だった。
無論この場所でも、義明に幾度となく抱かれた。
一人きりの孤独な月夜、そこに置かれたベンチで密かに自らを慰めたことも、一度や二度ではない。
あんな姿を誰かに見られていた―――そう思っただけで、体が羞恥に震え、見えない相手への怒りと恐怖が募る。送られてくるのは、いつも一葉の写真のみで、手紙の類は一切入っていないから、相手の意図もまるでわからなかった。
この日、めずらしく早い時間に自宅に戻った義明が、元気のない高耶を気遣ってきたが、写真の中身が中身だけに、相談するのも憚られ、結局言えずじまいだった。
翌朝早朝、義明は高耶をひどく気にかけてはいたものの、高耶のなんでもないというつくり笑いを信じたのか、結局、いつものように家を出て行った。
門の前で、その背が見えなくなるまで見送っていた高耶が、部屋に戻ろうとした時、不意に静寂を破るように電話の着信ベルが鳴り響いた。
最初は通りすがりの誰かの携帯が鳴っているのかと思ったが、辺りを見回しても、人影はない。
怪訝に思い、音のする方に頭を巡らせ、何気なく門の脇につけられたポストに目をやった時、高耶は全身が冷たくなるのを感じた。
恐る恐るポストを開けると、いつもと同じく「橘高耶様」と書かれたあの白い封筒が入っていて、音は、その封筒の中から聞こえてくる。
「………ッ、」
高耶はそれを掴むと部屋に戻り、扉に鍵をかけ、震える手で封を切った。
中から出てきたのは、カメラつきの携帯電話と充電器、ハンドフリーで会話する為のインカム、そして、一葉の写真。
バストアップで撮られ、目を閉じたその表情は、高耶は自慰の果てに放った瞬間のものだと思われた。
(………畜生………ッ!)
羞恥と怒りに、目の前が赤く染まる。
やむことのないコール音。
送りつけられた携帯のディスプレイは、非通知になっている。
「………」
躊躇いながらも、高耶が通話ボタンを押すと、受話器を通じて男の声が聞こえてきた。
『ああ。やっと出てくれましたね………あなたの声が聞きたくて………写真、よく撮れていたでしょう。気に入ってくれましたか?』
その声で、高耶はすぐに、この相手が、いつかオフィスに電話をかけてきた、義明に酷似した声のあの男だとわかった。
「………あんただったのか………」
怒りを押し殺したような声で高耶が告げると、あろうことか男は、受話器の向こうで嬉しそうに微笑んだ。
『覚えていてくれたんですね………嬉しいですよ。高耶さん』
「………!」
その口調は、高耶をゾクッとさせた。
年下の高耶を「さんづけ」で呼ぶ、その呼び方は義明とそっくりだったが、微妙にニュアンスが違う。
こんなにも似ているのに、義明にはない、どこか毒のような官能を孕んだ、危険な声。
「いったい、何のつもりだ………ッ、」
『あなたはあの時、絶望しきった私に優しく話しかけてくれた………私は、あなたのおかげで救われたんです』
「オレにどうしろって言うんだよっ………こんな真似しやがって………」
男はクスッと笑って、
『どうもしませんよ。ただ、あなたがあんまり、淋しそうだったから、今度は私があなたを助けてあげたくて』
「ふざけるな!」
カッとなった高耶が怒りのあまり通話を切ると、それは再び鳴った。
いつまでも鳴り続ける携帯を前に、渋々、再び通話ボタンを押すと、男は宥めるように言う。
『………怒らないで。でも、怒ったあなたも、とても素敵ですよ………』
「てめえ!」
『直江ですよ』
男は言った。
『私の名は直江です。直江と呼んで下さい………私の声は嫌いではないはずだ。いや、好きでしょう?何しろ、あなたの旦那の声にそっくりですからね』
その言葉は、高耶の背を冷たくさせた。
「………義明を………知ってるのか………?」
直江と名乗った男は、意味ありげに微笑んだ。
『ええ………とてもよく知っていますよ。できれば彼より先に、あなたと知り合いたかったのですが』
「………てめえが何をしたいのかは知らねえが、あんな写真でオレを脅してるつもりなら、残念だな」
高耶は押し殺したような声で、
「オレは女じゃねえ。あんな写真、見られたって………」
『嘘をつかないで。あんなところを俺に見られて、死ぬほどはずかしいくせに。強がっても無駄ですよ』
言い切った男に、カッとなった高耶は、
「いいか、よく聞け。オレはこんな脅しには屈しない。何が目的かは知らないが、諦めるんだな」
きっぱりと告げて一方的に通話を切り、高耶は男がもう二度とかけてこられないよう、携帯の電源を落した。
***
その翌日。再び、例の封筒が届いた。
だが、それはいつもと違って高耶宛ではなく、義明宛となっていた。
(………畜生………ッ!)
応じないなら、夫にばらすと言わんばかりの、無言の脅迫。
怒りに震える手で封を切ると、中からは、やはり自慰をする高耶のあられもない写真と数万円の現金、更にワープロ打ちされた手紙が入っていた。
『同じ封筒を義明の会社に送られたくなければ、今すぐ携帯の電源を入れて下さい』
どうすることもできず、高耶が自分のバッグに忍ばせてあった例の携帯をとりあげて電源を入れると、待っていたとばかりに着信音が鳴り響いた。
『………ああ、高耶さん………よかった。ずっとかけていたんですよ。やっと出てくれましたね』
「なんなんだよっ、あんた!いったい、オレにどうしろって………」
叫ぶ高耶に、男は言った。
『言ったでしょう?あなたは私に生きる気力を与えてくれた………だから、今度は私があなたを救ってあげたいんです』
「オレはそんなんじゃ………!」
言いかけた高耶に、直江は静かに告げた。
『あなたのお父さんは、それは酷い酒乱でしたね………そのせいでお母さんが出て行き、残されたあなたは、お父さんの元でそれはつらい思いをした。だから、社会に出たあなたは、お父さんとはまったく違うタイプの男を夫として選んだ。―――義明は優しくて、酒はたしなむ程度だし、資産もあるし、何よりあなたを愛してくれる。あなたは彼となら幸せになれると思った。………でも、今、あなたはちっとも幸せじゃない。淋しくて孤独で、捨てられた仔猫のように、たった一人で震えている』
「言うな!オレは……ッ」
『心理カウンセラーをしているくせに、本当は、救いがほしいのはあなたの方だ。違いますか?』
「黙れ!!」
高耶は顔を覆った。
幼い頃、毎晩のように父親に殴られ、庇ってくれるはずの母親にも捨てられて感じた孤独。
自分はちっぽけな、弱い人間だとわかっている。
自分に本当にひとを救う力があるなんて、そんな大それたことは思っていない。
でも、それでも自らがそうした体験をし、その時、民生委員をはじめ、多くのひとに救われたから、今度は少しでも悩んでいる他の誰かの力になりたいとカウンセラーへの道を選んだ。
それがいけないとでも言うのか。
『高耶さん………』
「………オレに、どうしろって言うんだよ………」
力なく、高耶が告げると、直江は静かに言った。
『………あなたの望みを叶えてあげる。言うことを聞いてくれたら、写真とネガは返します。今日はお仕事はお休みでしょう?この携帯と同封したお金を持って家を出て下さい。電話は私がいいと言うまで、絶対に切らないで。携帯はハンドフリーで話せるように、インカムをつけて下さい。まずは駅まで歩いて、電車に乗って新宿まで出てください。追って指示します。では、出かけましょうね』
高耶には、もはや顔の見えない支配者と化した男に従う以外、道はなかった。