UNTITLED 1-2
BY SHIINA
高速を飛ばす男の車の助手席で、高耶は完全に意識を失い、昏睡状態だった。与えられたのは強力な睡眠薬だ。おそらく明日の朝までは目が覚めないだろう。
高耶を攫った男、直江信綱はハンドルを握りながら、横目で何度もその寝顔を確かめ、時々、片手を伸ばしてその頬に触れ、愛おしそうに微笑む。
ようやくこのひとを手に入れたのだと云う実感に、目も眩む想いだった。探し続けて……探して探して、ようやく見つけた、愛しいひと。
もう彼はこの世にいないかもしれないと、絶望し、自らこの宿体の命を断とうとしたことも、一度や二度ではない。
その苦悩は、男の左手首に深い傷となって幾筋も刻まれていた。彼を見つけられたのは、本当に奇跡だと思う。
冥界上杉軍は、すでに景虎の後任として色部勝長が新たな大将の任についていた。
無論、景虎が見つかれば、彼が大将に復帰する手筈になってはいるが、三十年もありとあらゆる手を尽くし、探しつづけても見つからない為、誰も言葉には出さないが、もう景虎の魂はこの世にないかもしれないと、皆、半ば諦めかけ……直江自身、そう思いかけていた、そんな矢先だった。実家の寺の本堂に隠って、いつものように一心不乱に祈りを捧げていると、突然、直江でなければ決して気づかないだろう、本当に微かな憶えのある気配を感じ、それと同時にほんの一瞬、誰かの姿が見た気がした。
その途端、直江はまるで雷に打たれでもしたかように、その場に動けなくなった。
鼓動が早まり、手が、足が震えた。
「……か…げとら、さ……」呟く声が掠れた。本当に微かにだったが……自分があのひとを、間違う筈がない。三十年前のあの日から、一瞬たりとも忘れたことなどない。今の気配は、今見えたひとは、紛れもなく。
(景虎様!……景虎様、景虎様ッ!!)直後、直江は狂ったように思念を送り、渾身の力で呼びかけたが、思念は返されることはなかった。
なぜ彼が応えないのかわからないが、それでも彼が生きていることがわかっただけで、今の直江には充分過ぎるほど充分だった。
それに、たった今見た、顔はわからなかったが、夕日の中に立ち尽くす彼の背後の、黒っぽい城のような建物。
この城の場所さえわかれば、彼は見つかる。
生きてこの世にいるのなら、どこにいようが、必ず見つけ出す。あなたの側に行く。翌日、直江は松本にいた。彼の背後にぼんやりと見えた、黒っぽい城のような建物が、もしかしたら松本城ではないかと思ったからだ。
夕日に浮かぶ松本城をその目で見た時、直江は確信した。間違いなく昨日自分が見たひとが、景虎だと云うことを。
そして、彼もこの場所に立って、同じ夕日を見たことを。それから数日、景虎を求めて松本中を奔走していた直江は、ついに見つけたのだった。
誰かに殴られたのか口もとを腫らし、学校へも行かず、町をぶらつく少年の姿をした彼を。彼を見た瞬間、直江はすぐにでも駆け寄って、足元に縋りつき、会いたかったと叫びたいのに、できなかった。
生きていた景虎を目のあたりにして、あの時の彼の言葉が、まざまざと蘇ったのだ。(お前だけは許さない……!)
怒りに燃えた、あの時の彼の瞳を、声を……永遠に忘れない。
自分はそれだけのことをしでかしたのだから、恨まれ、憎まれるのは当然だったが、それでも、その言葉は心を引き裂き、三十年経った今でも鋭いナイフとなって、直江の胸を深く抉った。今、ノコノコと彼の前に出て行き、あの時のように拒否されるぐらいなら……男の胸に、暗い想いが過ったのはこの時だった。
もしかしたら景虎が見つかるかもしれない云うことを、他の仲間に一切知らせなかった時点で、すでに心は決まっていたのかもしれない。
拒否されるぐらいなら、無理にでも奪って、景虎を自分だけのものにすると。
それから直江は、現在の景虎のことを調べ始めた。
今すぐ攫うのは簡単だが、これからずっと彼を閉じ込めようと云うのだから、やはりそれなりに準備もある。彼の現名は仰木高耶。年は十四歳だった。
あの時、抵抗する景虎を力でねじ伏せ、無理矢理この手で換生させたのだから、本当なら同じ年令の筈の彼が、なぜ自分より十一歳も年下なのかはわからなかったが……高耶が育った環境は複雑のようで、父親が酒乱の為に、母親が出て行き、その為に更に荒れた父親が、彼に暴力を振るっていることや、そのせいか高耶はあまり学校へも行かず、シンナーや煙草を吸うような、荒んだ生活をしていることなどを知ると、男の胸が激しく痛んだ。
直江が何より驚いたのは、どうやら今の景虎には過去の記憶がないらしいことだった。どうりで、あれだけ呼びかけても何の反応もない筈だ。
今の切迫しつつある闇戦国の状況を見れば、一刻も早く、彼に記憶と力を取り戻してもらい、総大将に復帰してもらうのが何より重要なことぐらい、わかりすぎるほどわかっている。
晴家など、景虎が生きていたことを知れば、どんなに喜ぶだろうか。でも、恨まれて排除されても仕方ないことを、あの時の自分はしたのだ。彼が記憶を取り戻せば、彼の側には二度といられなくなるかもしれない。
彼が生きていたと云うのに、ようやく見つけたと云うのに、彼の側にいられないなんて、そんなのは耐えられない。
彼に、自分を拒否なんてさせない、絶対に。
自分は狂った。とっくに狂ってはいたけれど、おそらく本当に狂ってしまったのだ。
こんな男を後見人に選んだ、謙信公が間違いだった。
上杉を滅ぼすのは、もしかしたら自分なのかもしれない。そうなったとしても……例え、このせいで、この世界が滅ぶことになったとしても。
すべての罪は、自分が背負う。彼より大切なものなど、ありはしないのだから。
直江の暗い決意は、変わることはなかった。
運転しながら、ふと高耶に目をやると、ぐったりと投げ出された手の甲の、いくつかの火傷が目に入った。
「根性焼き」と云う、煙草の火を押し付けた痕だ。
まだ幼さの残るその口もとも、父親に殴られたのだろう、少し切れて赤くなっている。
直江は片手でハンドルを握りながら、もう片手で高耶の手をそっと握った。もうあなたを、誰にも傷つけさせたりしない。
やがて高速を降りた直江は、宇都宮市郊外の、とある別荘の敷地内に車を止めた。
コンクリート打ち放しの、まるで美術館のような外観の洋館。高耶の為に用意した、高価な檻だった。
車を降りた直江は、高耶側のドアに回ると、ぐったりとした体を軽々と抱き上げた。
「さあ、着きましたよ、高耶さん。今日からここがあなたの家ですよ」直江は、意識のない高耶を抱きしめ、幼さの残る寝顔に口づけながら、囁いた。
「ここで、永遠に二人だけで暮らしましょう。愛しています、高耶さん。あなたの望むものは何でもあげる……あなたが願うなら、何でも叶えてあげますよ……」
そして、心の中で付け加えた。(……自由以外はね)