untitled(死神編) intoro
割れた食器が飛び散る室内に、音もなく一人の男が降り立った。
闇の色のスーツと、コートを纏った男は、自らの意思で姿を現そうとしない限りは、通常、ひとの眼には見えない。
その両手には、衣服と同じ、闇の色の手袋がきつく嵌められている。
この家の住人である、若い夫婦の、夫の体からは強いアルコール臭が漂っている。
子供達の為にも立ち直ってほしいと泣きながら諭す妻に、夫は容赦なく暴力を振るった。
母親を庇おうと、荒れる父親の前に立ちはだかる幼い少年。
狭い部屋の片隅で、その様子を眺めていた男は、静かに溜息をついた。
男が死神になって、まだ四百年しか経っていないが、こうした理不尽な死に出会う度、男は思わずにはいられなかった。
なぜ、この日、自分が迎えにきた魂が、この夫ではないのだろう。
母を庇う少年と、ベビーベッドで泣き続ける赤子。
幼い子供達には、暴力を振るう父親より、母親が必要ではないか。
感情を持たないはずの死神が、そんなことを思うこと自体、すでにこの時点で、男は死神としては規格外だったのだが、例え、男がそう思ったところで、ひとの運命を変えられはしなかった。
生物には皆、定められた寿命がある。
それが、どれほど理不尽なものであっても。男にできることは、せめて肉体を離れた魂が、この世で迷うことなく、安らかな場所に辿りつけるよう、導くことだけだ。
夫に激しく殴られた妻の体が、激しく壁に打ち付けられた。
頭を打つ鈍い音がして、さすがの夫の手も、一瞬、止まったが、幸い、妻はなんともない様子だったので、安堵すると同時に、チッと舌打ちをして、夫は家を飛び出していった。
「―――かあさん!」
気遣う少年に、母親は、大丈夫よ、と微笑む。
自分を庇う幼い息子と、ベビーベッドで泣き通しだった娘の両方を、力なく抱きしめた彼女の体内では、たった今、夫から受けた暴力によって、すでに死へのカウントダウンがはじまっていた。
***
翌朝、少年が目覚めた時、すでに母親は冷たくなっていた。幼い彼が、どんなに必死に呼びかけても、母親は二度と眼を開けることはなかった。
尋常ではない少年の声を聞きつけた隣人の通報で、すぐに警察と救急車が駆けつけ、父親は即日逮捕され、身よりのない兄妹は施設に送られることになった。
葬儀に向かう為、施設の人間に手をひかれた少年は、気丈にも泣いてはいなかった。
高い煙突から上る煙が、くすんだ空に滲むように消えていく様を、少年は渇いた眼でじっと見上げている。
「死」の意味が、まだ幼い彼にわかるはずもなかったが、優しかった母親と、もう二度と会えないのだということだけは、漠然と理解しているように見えた。
母親の肉体から離れた魂を、無事、行くべきところへ送り届けた男が、斎場の隅で葬儀の様子を見守っていると、ふと、少年が男の気配に気づいたかのようにこちらを見た。
彼の幼い眼は、あきらかに男の姿を捕えているかのように見える。
通常、自らの意思で姿を見せた方がよいと判断しない限り、男の姿はひとの眼に見えることはない。だが―――
(……あの子には、私が見えている?)
***
それから二週間が過ぎたある日、こっそり施設を抜け出した少年―――まだ幼い仰木高耶は、以前、よく遊んだ、かつての自宅近くの公園に足を向けていた。
施設の職員は皆、優しかったが、他にも大勢の子供が収容されているそこには、心から休まる場所がない上、三歳年下の妹は、まだ口も聞けない赤ん坊で……ようするに、高耶は一人になりたかったのだ。
幸い、夕暮れの公園には誰もいない。一人でブランコを漕いでいるうちに、優しかった母親のことが思い出されて、泣きそうになった時、不意に、背後にひとの気配を感じた。
「だれ?」
高耶は、怯えたように振り向いた。
公園には、さっきまで自分以外、誰もいなかったはずなのに……いつのまにか、黒いスーツを着た長身の男が、ブランコの側に立ってこちらを見ている。
それが、先日の葬儀で見覚えのある男だったので、高耶は少しホッとしたように、改めて言った。
「この前もいた……しんせきのひと?」
驚きのあまり、男は鳶色の眼を見開いた。
(まさかと思ったが―――やはり、この子には私が見えている)
さすがに衝撃を隠しきれなかったものの、男は、それでも、幼い少年を脅かさないよう、平静を装い、微笑みかけた。
「ええ……それより、一人でこんなところにいたら、みんなが心配しますよ。それに、もうすぐ暗くなる。戻った方がいい」
少年は答えなかった。
男の言葉が聞こえなかったように、黙ってブランコを漕いでいる。
淋しげな、小さな背を見ていると、自分がこの子から母親を奪ったのだというような、罪悪感が込み上げてきて、男は信じられないというように頭を振った。
(馬鹿な……)
かつては自分もひとだった、遠い記憶がないわけではない。
だが、今はひとではない自分が、人間のような感情を抱くことなどあるはずもない―――それなのに。
男の内心の動揺を知りもせず、高耶は問いかける。
「……死んだひとが、どこにいくのか、知っている?」
まるで、今すぐ、自分もそこに行きたいというような、切ない表情を見せる少年を前に、
「そうですね……」
男は、少し考えて、黒い手袋を嵌めた手で、少年の胸を指差し、触れた。
「……?」
不思議そうな表情をする少年に、
「心の中。……と言っても、幼いあなたには、少し難しいかもしれませんが」
男は優しく微笑んで、
「ひとは死ぬと、自分を大切に思ってくれるひとの、心の中に行くのだと思いますよ。肉体は失われても、そのひとが忘れないでいてくれる限り、ずっと、そこで生き続ける」
俯いた少年は、男が告げた言葉の意味を、幼いなりに、一生懸命考えているようだった。
やがて、顔を上げた彼は小さな手で自分の胸を押さえて、
「……オレが忘れなかったら、かあさんはずっと、ここにいるってこと?」
男は微笑んで、
「高耶さん……でしたね。あなたは、とても、賢い子だ。お母さんのこと、忘れないで……そして将来、あなたが大きくなった時、妹さんに、お母さんがどんなに優しいひとだったか、話してあげるといい」
穏やかに話す男は、高耶が知っている、どんな大人とも、雰囲気が違っていた。
子供心に、風変わりな男だと思ったが、その表情や態度に、不思議と恐怖は感じなかった。
実は、高耶はまったく同じ質問を、施設の先生達にも聞いてみたのだけれど、彼らは皆、死んだひとは天国にいってお星さまになるのだと言って、男のように答えてくれた大人は、一人もいなかった。
もっと、この男に、いろんなことを聞いてみたいと思った。
この男なら、自分が子供でも、どんなことでも、はぐらかすことなく答えてくれるような気がする。
高耶がそう思った時、出しぬけに、日の落ちかけた通りの向こうから声が聞こえた。
次いで、「高耶くん!」と呼ぶ声。
彼の姿が見えないことに慌てた施設の職員が、探しに来たらしい。
男は、手袋をした手で、小さな肩に手を置き、
「ほら、心配して、みんながあなたを探しに来ましたよ」
本当は、もう少しこの男と話していたかったのだが……高耶は、素直にブランコを降り、男に問いかけた。
「―――またあえる?」
スーツの裾をつかんで問いかける少年に、男は穏やかに微笑む。
「……ええ。きっと、会えますよ」
「高耶くん!よかった……」
息を切らして駆け寄った中年の保育士に、きつく抱きしめられた高耶が、背後を振り向いた時、たった今まで、そこにいたはずの男の姿は、まるで魔法のように消えていた。
しんせきだと言ったけど、それは嘘だと、高耶は子供心に気づいていた。
あの男のひとのことは、誰にも言わないでおこう。誰かに言えば、もう二度と会えなくなってしまうような気がするから。
手を引かれて去っていく幼い背を見送りながら、男は思った。
あの子には、自分の姿が見えた。
それが、どういう意味を持つのか、男にはわからない。
ごく稀に、並外れた霊感を持つ人間がいることは確かだが、まがりなりにも神である(といっても死神だが)自分の姿を、こちらの意思に関係なく見ることのできる人間に会ったのは、四百年生きてきて、これがはじめてだった。
(オウギタカヤ―――あのひとは、これから、どんな生を送るのだろう)
意志の強そうな眼をしていた……。
高耶という少年は、この日から男にとって、特別な存在になった。
***
××××年12月24日。
多くの人間が、イブで浮かれるその夜も、留置場には、暖房すら入れられていない。
仰木高耶は冷たいコンクリートの上に座り込み、あてがわれた毛布を頭から被って、膝を抱え、ガクガクと震えていた。
十四歳―――本来なら、まだ、家族でクリスマスを祝っていたとしても、おかしくはない年齢だ。
不良仲間との関わりから、やってもいない麻薬密売の嫌疑をかけられた彼が、どれほど強がってみせても、不安と孤独に打ちひしがれ、張り裂けそうになっているその心情が、傍らに佇む男には、手にとるようにわかった。
(高耶さん……)
同じ、人間であったなら、このひとを守ってやることもできただろうに。
魂を迎えに、地上に降り立つ度、ひそかに傍らで彼の成長を見守って来た男は、自分が、いつしか高耶に対して、まるでひとがひとに対するような、特別な感情を抱いていることに、いまだ気づかずにいる。
毛布を被った震える背に、男はそっと囁く。
明日の朝には、あなたの容疑は晴れて、ここから出られる。
こうして見ていることしかできないけれど―――
あなたには、私がついている。