団地妻 多重人格編PART2
「―――あんた。ンなとこつっ立ってんじゃねえよ。邪魔なんだよ」
苛立つ若者の罵声を浴びて、橘義明はようやく我に帰った。
通い慣れたターミナル駅の改札付近で、進路を塞ぐように、立ち尽くしていた己に気づき、橘は非礼を詫びつつ慌ててその場を離れる。
ちっと舌打ちをしながら橘を咎めた若者が改札を抜けていき、その後を、帰宅を急ぐ無言のサラリーマンの群が続いた。
駅構内の時計の針は、十一時を回っていた。
こんな時間になるまで、自分はいったいどこで何をしていたのか。
橘は混乱した頭を整理しようと、必死に考えを巡らせ―――大切なことに思い当たった。
(―――高耶さん)
………そうだ。自分は、あのひとと待ち合わせていた。
今日は金曜だから、仕事が終わったら、いつものレストランで一緒に食事をしようと―――高耶を待たせてはいけないと、退社後、すぐに待ち合わせ場所に向かったはずなのに……その後の、記憶がない。
橘は取り乱した様子で、スーツの胸から携帯電話を取り出した。
高耶からの着信が、なぜか一度も来ていないことに、高まる不安を抑えつつ、彼のナンバーをコールする。
だが、何度かけなおしても、無機質な伝言メッセージが流れるだけで繋がらない。
自宅の電話も留守電になっていた。
高耶と連絡が取れない―――こんなことは、はじめてだった。
(高耶さん……!)
あのひとの身に、何かあったのではないか。
橘の、端正な顔が青ざめる。
尋常でないほど動転しかけた橘に、通りすがりの人々がいぶかしげな視線を投げかけるが、彼の眼には入らない。
いてもたってもいられず、橘はタクシー乗り場へと駆け出した。
***
車を急がせ、まもなく自宅前に辿りついた橘は、札入れから取り出した万札を運転手の手に押しつけるなり、タクシーを飛び降りた。
二年前、結婚と同時に居を構えた二人の自宅は、都心に建つ、とある公団の最上階にある。
いわゆる『団地暮らし』ではあるものの、ハイグレードな外観は高級レジデンスにひけをとらない立派なものだったし、周囲の環境もよく、彼らはこの家をとても気に入っていた。
エントランスに駈け込み、エレベータに乗り込んで最上階ボタンを押す。
タクシーの中でも、繰り返し自宅と高耶の携帯に、交互に電話をかけ続けたが、高耶が電話に出ることはなかった。
すでに日付が変わっている―――橘の不安は募る一方だった。
エレベータを降りるなり、無人の通路を急ぎ、鍵を開けるのももどかしく、荒っぽくドアを開け放つ。
人気のない暗い室内に、男の声が虚しく響いた。
「―――高耶さん!」
電灯のスイッチを入れつつ、つかつかとリビングに足を踏み入れるが、すっきりと片付けられた部屋のどこにも、いとしいひとの姿はない。
「高耶さん!いませんか?―――高耶さん!」
念の為、寝室から書斎、バスルームやクロゼットの中まですべて見て回ったものの、やはり高耶は帰宅していなかった。
(高耶さん……ッ)
高耶が無断で家を開けることは、これまで一度もなかった。
いとしいひとの身を案じた橘の、全身の血が凍りつく。
つい先ほどまで、駅で記憶を無くして立ちつくしていた一件など、すでに橘の頭からは完全に抜け落ちてしまっている。
彼は、己の抱える深刻な病に―――自分のなかにいる、もう一人の男の存在に、まったく気づいていなかった。
とりあえず心当たりをすべて当たって、それでも見つからなければ警察に―――悲壮な覚悟を決め、「これを見たらすぐに電話してください」とリビングのメモに走り置きをして、再び表に飛び出そうとした、その時だった。
***
「―――高耶さん!」
橘の鳶色の眼が見開かれる。
いつのまに戻ったのか、扉の前に、俯いた高耶が所在なさげに立っていた。
「高耶さん……ッ、今まで何処に……!」
駆け寄る橘を前にしても、なぜか高耶は、顔を上げるどころか、こちらを見ようともしなかった。
「心配しましたよ……あんなに何度も電話したのに、どうして出て下さらなかったんです」
心の底から安堵しつつも、つい、咎めるような口調になってしまう。
だが、それでも、無事に戻ってきたいとしいひとを確かめたくて、こちらへと引き寄せた時、細い体が酷く震えていることに、橘はようやく気づいた。
「高耶、さん……?」
「………」
言葉を発しない高耶のシャツから、微かに漂う、男物の香水と思われるラストノート。
無論、高耶は香水など使わない。
「高耶さん……」
異変を悟った橘が、俯いたままの高耶を、半ば強引に上向かせる。
ラフな着こなしを好む高耶にしては、不自然なほどきつくボタンの留められた襟元に、見覚えのない紅い痕が覗いているのをその眼で認めて、橘の表情が見る間に青ざめた。
「………」
なにか言いかけた橘の手が、無意識に高耶のシャツの襟に伸びる。
「駄目だ、よしあっ……」
橘は、弱々しく抗おうとする高耶のシャツの襟を、無我夢中で引き剥いだ。
「―――ッ!」
ピン、と音を立てて、勢いよくボタンが弾け飛ぶ。
露になった首筋から鎖骨にかけて、花びらのように散らされた紅い刻印、シャツの袖から覗く細い手首の、鬱血を伴う鮮やかな縄縛痕―――橘は高耶に、何が起きたのかを悟った。
橘の唇が、ぎこちなく動いた。
「誰に、されたの………」
「………ッ」
高耶は苦しげに眼を逸らす。
「こんなに………痣になるほど縛って………いったい、誰があなたにこんなこと……ッ」
血を吐くように、絞り出された橘の声は、激しい怒りに震えている。
穏やかな橘が、これほどまでの怒りを露にしたのは、高耶が知る限りはじめてだった。
悲痛な叫びを前にしても、高耶はなおも苦しげに首を振るしかできない。
橘は、自分のなかの、もう一人の自分の存在を知らないのだ。
「……どうして黙っているんです……お願いです。何か言って下さい……高耶さん!」
高耶はつらそうに顔を歪め、苦しげに声を振り絞った。
「……言、えない……ッ」
いとしい唇が紡いだ信じられないその言葉に、橘は彼らしくもなく激昂した。
「どうして………!あなたは、こんなに酷いことをした相手を庇うんですか。それとも、あなたは……」
その先の言葉は、恐ろしくて口にできなかった。
あなたは、その男を―――愛しているとでも言うのですか?
激しく両肩を揺さぶられても、視線を逸らせ、頑なに口を閉ざしたままの高耶に、橘は打ちのめされたように立ち尽した。
高耶を、誰よりも愛している。
このひとも、そう思ってくれているものと、今まで信じて、疑いもしなかった。
それなのに―――
橘は、有無をいわせず細い腕を掴むと、寝室へと連れ込んで、細い体を容赦なくベッドに放り出した。
「―――ッ!」
二年ぶりに現れたあの男に、手酷く貪られたばかりの体を激しくマットに打ちつけられて、高耶は声にならないうめきを漏らす。
橘は構わず、音を立てて己の首からネクタイを引き抜き、自らもベッドに乗り上げて、細い体に覆い被さった。
「よしあ………!」
普段の彼なら決してしない、乱暴な仕草でシャツに手をかけてくるその腕から、逃れようと弱々しくもがく高耶に、橘は冷ややかに告げる。
「なぜ拒むんです?私たちは夫婦でしょう。いつもしていることですよ。今更、恥かしがらないで」
橘は抗う高耶の両手首を己のネクタイで一纏めにし、細い腰からジーンズを下着ごと引き摺り下ろした。
「やっ………見るな………!」
全身に花びらのように散らされた情事の痕。
子供のように処理された下肢。
その付け根に、一際紅く刻まれた口づけの痕跡をはっきりと認めて、橘の声が震えた。
「……これも……その男がやったんですか」
「………ッ」
敏感な箇所を、ぞわりと指先で撫で上げられて、高耶が激しい羞恥に顔を背ける。
「こんなに恥かしいことまでされて……他には、何をされたの?その男は、あなたをどんな風に抱いたんです」
問い詰める橘に、高耶は嫌々と首を振るばかりだ。
体の下で、薄い胸が、激しく上下している。
いとしいひとの体の震えを己の皮膚で感じて、ふと眼を細めた橘は、
「怖がらないで……愛しているんだ。命よりも大切なあなたに、酷いことなんてできるはずがないでしょう?」
囁いて、橘はいとしい唇に半ば強引に己の唇を重ねて、深深と口づけた。
高耶を求める唇は、首筋から鎖骨を滑り、胸の突起を辿って、下へ下へと降りていく。
逃れようとする腰を抱き込むように、背後に回された指が、蕾を割って侵入すると同時に、萎えた楔を唇で扱かれ、きつく吸われる。
直江に手ひどく責められたばかりの箇所を、再び弄ばれるのは、今の高耶には苦痛でしかなかったが、泣いて許しを乞うても、橘はやめない。
前と後ろを執拗に責められ、半ば強制的にしろいものを吐き出させられた高耶の、切ない悲鳴を聞いた時、橘の背がわななくように震えた。
―――この声を、他の誰かが聞いた。
自分だけに許された、このひとの、この表情を、自分以外の誰かも見たのだ。
そして、その相手を庇うかのように、高耶自身が固く口を閉ざしている―――橘は気がおかしくなってしまいそうだった。
自分には高耶しかいない。
このひとがいなければ、生きていけない。
高耶を犯した男への嫉妬よりも、高耶を失うかもしれないという恐怖が、橘を極限まで追いつめた。
「……高耶さんッ……高耶さん、高耶さん……!」
橘は、折れんばかりに、いとしい体をかき抱く。
抵抗できない両脚を抱え上げ、無我夢中で貫いた。
「アア―――ヒッ……!」
激しい抽送に悲鳴を上げ続け、半ば朦朧としながら、高耶は、思う。
自分は、間違っていたのではないか。
もっと早く義明に真実を告げて、何らかの治療を受けさせるべきだったのではないか。
義明を傷つけたくなかったから、言えなかったなんて、嘘だ。
心の何処かに、もし義明が人格統合の治療を受けることで、あの男が消えてしまったら―――そんな恐れが、あったのではないか。
義明を愛しながらも、確かに、あの悪魔のような男にひかれている………自分はやはり、直江が言う通り、酷い淫乱なのかもしれない。
―――なおえ。
高耶が、無意識のうちに呟いたその名を、橘は聞き逃さなかった。
「………そう……ですか………。あなたの男は、『直江』、と言うんですね」
氷のように冷ややかなその言葉が、半ば正気を手放しかけていた高耶を、現実へと引き戻した。
我に帰った高耶は、必死に声を振り絞る。
「あ、………ちがっ………、よし、あ………ヒッ!」
結合したまま、橘は容赦なく上体を倒した。
より深く肉の刃に貫かれ、苦痛の悲鳴を上げる高耶に、
「その、直江と言う男は、いったい何処にいるんです。答えて」
「……ッ」
きつい目元を涙で真赤に腫らし、苦しげに喘ぎながら、それでも頑なに口を閉ざす高耶に、橘は言い募った。
「強情なひとだ。……仕方ありませんね。どうしても言えないというのなら、構いませんよ。………でも、高耶さん。これだけは覚えておいてくださいね?私は、あなたが他の男を愛したからと言って、素直に別れてあげられるほど、できた人間じゃあない。あなたを―――他の誰かに手渡すような真似は、死んでもしない」
言い切った橘は、恐ろしいほど真剣だった。
「高耶さん―――あなたを失わない為なら、俺は何だってできるんですよ。このことを、忘れないで……」
***
悪夢のような一夜が明けた。
直江と橘の両方に貪り尽くされ、ぼろぼろに疲れ果てて眠り込んでいた高耶がようやくベッドに身を起こした時、何処かに出かけていたらしい橘が、紙袋をいくつも抱えて、ちょうど戻ってきたところだった。
「おはようございます。目が覚めたんですね。気分はどうですか?」
「義明……」
「……あなたの為に、いいものを買ってきましたよ」
微笑む橘の声や表情は、いつものように穏やかだったが、橘が紙袋から取り出した拘束具や、医療用と思してカテーテルや器具、さまざまな淫具を目にするなり、高耶の声が、怯えたように上擦った。
「な、にす……」
橘は、こともなげに、
「今日からあなたの身の回りのことは、私がすべて、してあげることに決めたんです。これはね、あなたが一人で留守番をする時、トイレを我慢しなくていいように買って来た道具ですよ。それから、俺が仕事の時、淋しくないようオモチャもたくさん買ってきてあげましたからね」
「義明ッ……!」
橘は、うっとりと微笑んで、
「高耶さん……これからは、ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも、トイレに行くのも何もかも、俺がこの手でしてあげる。心配しないで……愛しているから。あなたはただ、腕のなかにいてくれればいい」
普段と変わらぬ穏やかな口調で、恐ろしい言葉を吐く橘に、高耶は、心優しい彼を傷つけ、追いつめてしまったことへの、これは罰だと思った。
義明に真実を伝えず、彼のなかのもう一人の男にひかれてしまった、淫らな自分に架せられた、ふさわしい罰。
この日を境に、高耶の生活は一変した。
橘は、高耶にまともな着衣も、自分が一緒にいる以外の、一切の外出を許さず、高耶を一人にする時は、例えどれほど僅かな時間であろうと、細い体をベッドやリビングの柱に繋いで、何処にも行けないよう拘束した。
不動産店に勤務し、外回りも多い橘は、仕事の合間に幾度となく戻ってきては、甲斐甲斐しく高耶の世話をやく。
いとしいひとを椅子に座らせ、子供のように一匙ずつ食事を摂らせ………それがすむと、再びリビングや寝室の柱に手足を拘束具で繋ぎ、淫らな淫具を飲み込ませては、再び家を出ていった。
それから更に数日―――この日も、高耶は、シャツ一枚のみを許されただけのあられもない姿で、リビングの柱を後ろ手に抱く形で戒められ、放置されていた。
昼過ぎに帰宅した橘の手で、飲み込まされたローターは、すでに電池が切れかけてきているらしく、動いたり、止まったりを繰り返しては、細い体を苛んでいる。
自由にトイレに立つことすら許されない高耶の、楔に挿し込まれたままカテーテルが、ひっきりなしに排泄を刺激して、たまらなく不快なのだが、高耶にはどうすることもできなかった。
あの日以来、閉めきられたままのカーテン。
リビングからカレンダーや時計は取り払われ、連日の荒淫もたたって、時間の感覚も薄れかけてきている。
セールスと思しきインターフォンが鳴りひびく度、びくりと現実に引き戻されるが、今の高耶は声を潜めて来訪者が諦め、去るのを待つしかない。
長い時間が過ぎ、室内が薄闇に包まれた頃、ようやく橘が帰宅した。
***
「―――ただいま。高耶さん」
ゆったりと、優雅な仕草で室内に足を踏み入れた男は、あられもない姿で柱に繋がれている高耶に視線を落とすと、クスクスと笑った。
限りなく黒に近い、濃いグレーのシックなスーツ。
まぎれもなく、今朝、義明が出社する際、着ていたものだが、いま、目の前の男が義明ではなく、直江になっていることは、その立ち振る舞いや仕草から、高耶には一目でわかった。
「―――なお、え……っ、」
震える声で、高耶がその名を呼ぶと、男は、鳶色の目元を綻ばせ、
「今日は義明の服装のままなのに、私がちゃんとわかるんですね………嬉しいですよ、高耶さん。時間をかけて、躾けた甲斐があるというものです。それにしても、なんて格好をしているんです」
「………ッ」
高耶は唇を噛み締め、嬲るような視線から逃れるように顔を背けた。
直江は心底楽しそうに、
「もしかして、俺との浮気がバレて、お仕置きですか?あの義明がここまでやるとは思いませんでしたが、ぼうやに管なんて入れられて」
……かわいそうにね。
言葉とは裏腹に、直江は若い楔に指を伸ばし、反応を楽しむように、カテーテルを飲み込まされている鈴口を淫らに弄んだ。
「やッ………そこ、やめ………」
感じやすいその場所を繰り返しなぞられ、必死に声を押し殺す高耶を、うっとりと見つめながら、直江は揶揄るように言う。
「けれど、淫乱なあなたのことですからね。この程度のお仕置きじゃあ、物足りないのではありませんか?心配しないで……今夜は私が、朝まで可愛がってあげますよ。もっと酷くて、うんと気持ちのいいことを」
悪魔のような甘い囁き。
首筋を淫らな手つきで撫で上げられ、官能を煽るように殊更ゆっくりと時間をかけて口づけられる。
「………愛していますよ、高耶さん」
あなたは好きなだけ、快楽に喘げばいい。
―――直江。
(オレは……やっぱり……この、ひどい男を………)
囁く男の腕から逃れられない高耶の漆黒の双眸から、切ない涙が伝い落ちた。