「untitled 1」
急性人格転換障害症候群―――APCDと名付けられた「精神疾患」に端を発した、いわゆる「闇戦国事件」が、国内外にもたらした余波は大きかった。
各地で相次いだ、天変地異的な大災害。
四国で見られる数々の怪異、京都市民が数万人規模で失踪し、後に生還を果たした事案。
通常では説明のつかない事象を一つ一つ挙げていけば、枚挙にいとまがない。
なかでも、一時は騒動の元凶であり、カルトのリーダーだと一方的に断罪された「赤鯨衆・仰木高耶」が、テレビに向けて人々に語った、死後もなお、この世に存り続けると言う死者の「魂」。
体を換えて生き続ける「換生者」の存在、生者と死者が、ひとつの世で共存することの是非。
新聞、テレビ、雑誌では繰り返し特集が組まれ、ネットでもさかんに議論が交わされるなど、時が過ぎても人々の動揺は容易には収まらなかった。
そのさなか、長秀や、生き残った他の仲間とともに一年がかりで大斎原の浄霊を終え、七年ぶりに宇都宮の実家に姿を見せた直江―――こと、橘義明は、出迎えた家族らに長い間、連絡もせずに心配をかけたことを心から詫び、深々と頭を下げた。
今まで、どこでどうしていたのか、宮島で行方不明になって以降、いったい何があったのか。
霊感を持つ義明が、あの「仰木高耶」と面識があったことは承知していたから、義明もなんらかの形で「闇戦国事件」に関わっていたことは想像にかたくない。
それこそ聞きたいことは山ほどあったが、戻って来た三男の、深い慟哭の果てに、どこか達観したような眼を見た時、家族の口から出てきた言葉はひとつだった。
「……お前が無事で本当によかった。おかえり、義明」
橘家の家族は、直江の失踪の理由を問いただそうとはしなかった。
元より、義明が理由もなく、突然いなくなるような人間ではないことは、家族自身がよく知っている。
おそらく、よほどの事情があったに違いない。
時が来れば、いずれ義明自ら話してくれるだろう。
それまでは、無理に問い詰めることはしない―――それが家族全員の一致した意見だった。
そうして直江は、再び家業の寺を手伝う傍ら、長兄、照弘の経営する不動産会社で働きはじめた。
大学卒業後、寺の後継を次男の義弘にまかせ、不動産会社を立ち上げた長男、照弘には、よほど商才があったらしい。
橘不動産は、長引く不況に関わらず経営は順調で、今では地元の宇都宮市内だけでなく、都内の一等地に支店を持つまでに成長していた。
台場の自社管理物件のマンションの一室に居を構え、東京と宇都宮を往復する多忙な日々を、直江は黙々とこなした。
仕事の合間を縫うようにして、今もなお、各地で起きる霊絡みの後処理にも駆けずり回り、時間を見つけては、伊勢の内宮にも足を運んだ。
高耶の宿体が転生した桜は、通常ではあり得ない早さで成長し続け、内宮を訪れる人々を驚かせている。
大きく枝を伸ばし、一年にも満たないうちに大木となった桜と、その傍らに寄り添うように、成田譲が姿を変えた神石は、変わりゆく、この国の人々の未来を静かに見守っているかのようだった。
この日、直江は照弘とともに、赤坂にある橘不動産の東京オフィスにいた。
他の社員が出払ったところで、照弘は秘書用のデスクでPCに向かっていた直江に声をかけた。
「……義明。今、ちょっといいか」
「ええ」
直江は席を立ち、照弘に促されるまま、来客用のソファに腰を下ろして向き合った。
「……なんですか。また、出張ですか」
「いや、仕事の話じゃないんだ。……いい年した男に言う台詞じゃないのはわかっているが、実は、お前がしょっちゅう、何処かに出かけているのを、母さんが気にしていてな」
「………」
家族には、高耶のことも、伊勢に行っていることも伝えていないから、怪訝に思われても仕方ないかもしれない。
「もちろん、出かけるなと言ってるわけじゃないが、母さんはもう年だしな……。口には出さないが、お前がまた、どこかに行ったまま帰ってこなくなるんじゃないかって、心配でたまらないんだよ」
「……」
「まあ、好きな女のところに通ってるとか言うなら、俺としてはむしろ大歓迎なんだが」
「兄さん……」
困ったような表情を浮かべる弟を前に、照弘は笑いをおさめ、
「……なあ、義明。またその話かと、うんざりしているかもしれないが、父さんも母さんも高齢だ。あとはお前さえ落ち着いてくれればと願ってる」
「……」
「それに、お前だって今年、三十五だろう。独身貴族もいいが、そろそろ本気で身を固める覚悟をしてもいい頃なんじゃないか?」
直江は目を伏せた。
このところ、家族が以前にも増して、しきりと見合いを勧めてくるのは、家庭さえ持てば義明も、二度といなくなったりはしないだろうという、老いた両親の切実な願いが根底にあることは、直江には痛いほどわかっていた。
失踪を咎めることなく迎え入れてくれただけでなく、なおも身を案じてくれる橘の家族。
特に、自分の行方がわからなかった数年間は、心労からなにかと体調を崩しがちだったと言う今生の母、春枝には、本当に申し訳なく思っている。
だが―――
「……すみません」
直江は深く頭を下げた。
これまで、見合いの話が出るたびに、どうにか取り繕ってきたが、それも限界らしい。
やはり、はっきり伝えなければならないだろうと、直江は覚悟を決めた。
「長い間、心配をかけてしまったことは、本当に申し訳なかったと思っています―――ですが私は、この先、誰かと付き合うつもりも、結婚する気もありません。私には……すでに大切なひとがいるからです」
思いがけない弟の言葉に、照弘は驚きつつも安堵したように、
「なんだ。それならなぜ、その人を紹介してくれないんだ?」
「………」
不意に沈黙した弟の眼に、一瞬、痛みをこらえるような色が浮かぶのを、照弘は見逃さなかった。
「……義明?」
しばらく逡巡した後―――直江は静かな声で告げた。
「ええ。ぜひ紹介したかったのですが……残念ながらそのひとは……亡くなりました」
「えっ……」
思ってもみなかった言葉が返ってきて絶句してしまった兄に、
「―――いまは、ここにいます」
と、直江はかすかな笑みを浮かべて、いまでは真珠の一粒ほどに萎んでしまった景虎の魂を宿した左胸に手を当て、
「……私たちは、もう二度と逢えないし、話すことも、ふれることもできないけれど、私の心はいつも、そのひとと共にある」
いまも傍らに景虎がいるかのように微笑む直江の表情に、照弘は胸を突かれた。
「―――私の生がある限り、あのひとは私の中で生き続ける。私たちはつながっているから。どの瞬間も。……こうしている今も」
「義明、お前……」
直江はまた微笑して、
「……ですから、私は、そのひと以外の、他の誰かと結婚はできません。お母さんには、このことで、きっとまた心配をかけてしまうでしょうが……どうか許して下さい」
幼少時から見て来たが、あまり感情を表に出すことのない義明が、こんな風に微笑み、饒舌になるのを、照弘は見たことがなかった。
亡き後も弟の内面を占めているのだろう、その「相手」への想いの強さの片鱗を、照弘はこの時はじめて垣間見た気がした。
「……そうか―――」
長い沈黙の後に、深く息をついた照弘は、
「つらいことを言わせてしまって、悪かったな」
「……いえ。私の方こそ、黙っていてすみませんでした」
立ち上がった照弘は、直江の肩をポンと叩いて、
「……お前の気持ちはよくわかった。もう、無理に見合いしろとは言わんよ。母さん達にも、それとなく伝えておくから」
「……すみません」
自分のデスクに戻ろうとする弟の背を、照弘はため息とともに見送った。
だが、その時、照弘は信じられないものを見た。
義明の隣に、闇戦国報道で幾度となく眼にした、あの青年の姿が重なって見えたのだ。
「……!義明」
咄嗟に思わず声をあげて呼び止めてしまった照弘に、直江は驚いて足を止める。
「どうかしましたか」
無論、そこに立っているのは弟だけだ。
「……あ、いや、すまん。―――なんでもない」
目の錯覚だと自分に言い聞かせたものの、いまのは確かに、
(―――仰木高耶だった)
俄かには信じられないが、自らを「換生」して四百年生き続けてきた死者であり、「上杉景虎」だと語った仰木高耶。
整った容姿に、凛としたオーラを漂わせ―――なにより印象的な、不思議な紅い眼を持つ彼からは、テレビ画面を通してでさえ、高貴な魂が透けて見えるかのようだった。
彼はいま、四国で死者の霊達に「今空海」と呼ばれ信仰の対象となっていると言う。
その仰木高耶と接点があったという、義明。
幼少時の弟の姿が蘇る。
物心ついた頃から情緒不安定で、表情に乏しく、かと思うと、突然、発作的に自殺衝動を繰り返す。
悲嘆にくれ、刃物を持ち出し、幾度となく命を断とうとしたあの姿は、いま思えば、普通の子供の姿ではなかった。
(―――まさか、な)
(義明……まさか、お前も「換生者」なのか…?)
そして、生涯独身を貫くほど、大切なひととは、もしかして。
(―――「彼」、なのか…?)
照弘は、再びPCに向かう弟を見遣り、たった今、頭に浮かんだ考えをきっぱりと打ち消した。
いや、例えそうであったとしても―――それがなんだと言うのか。
義明は義明だ。
橘家の「不肖の三男」であり、自分の弟であり、大切な家族の一員であることは間違いないのだから。
照弘は、改めて亡くなった恋人のために生涯独身を貫くという弟の心情を憂うと同時に、義明がそこまで思い詰めた「そのひと」に会えないことを―――とても無念に思った。
それから数日後のことだった。
仕事を終えた直江が、台場にある自宅マンションに戻ると、宅配ボックスに荷物が届いていた。
分厚い封書の差し出し人は、仰木美弥となっている。
直江は、大斎原の浄霊の後、実家に戻る前に仙台に立ち寄り、美弥と国領に再会していた。
高耶の妹と言うことで、いわれのないバッシングを受け、一時は仙台の慈光寺に身を寄せていた彼女は、その後、松本に戻ることも考えたが、やはり以前のように生活するのは難しいだろうという周囲の判断から、現在も母のいる仙台市内にアパートを借りて暮らしていた。
いまは世話になった国領の寺を手伝いながら、好きな料理の専門学校に通っていると言う。
今年で二十一歳になったという美弥からは、以前の子供っぽい面影はすっかり消えていて、綺麗なアーモンド型の目元は、どこか高耶を思わせた。
彼女に高耶の死を告げるのは、非常につらいことだった。
だが、高耶の家族だからこそ、やはり彼女には、どうしても伝えなければならないと思った。
美弥は、信じたくはないが、兄がすでにこの世にいないことをそれとなく感じていたらしく、直江の口から高耶の死を告げられても、取り乱すことはせず、お兄ちゃん、と高耶を呼んで、静かに涙を流した。
しばらく泣いて、ようやく顔を上げた彼女は、気丈にも、直江に兄を看取ってくれた礼を言い、いつか気持ちが落ち着いたら、自分を四国に連れていってほしいと頼んだ。
四国の地で、今空海と呼ばれていると言う高耶。
会話はできなくとも、死者の霊に寄り添って歩くという兄に似たその姿を、一目でも見れたらと、彼女は言っていた。
直江はさっそく、美弥からの封書を開けた。
同封されていたのは淡いグリーンが美しいフォトアルバムで、メッセージカードが添えられている。
***
「直江さんへ」
先日はお会いできて嬉しかったです。
いろいろと、どうもありがとうございました。
お兄ちゃんが写っている写真を焼き増ししたので、よかったらもらって下さい。
仰木美弥
***
(―――美弥さん。ありがとう)
心の中で礼を言い、静かにページをめくる。
そこには、直江の知らない高耶の子供時代や、そして出会う前の、普通の高校生だった彼の日常があった。
母の胸に抱かれて眠る、赤ん坊の高耶。
真新しい幼稚園の制服を着て、帽子を被り、少し誇らしげな幼い高耶。
小学校時代に撮られたスナップでは、楽しそうにサッカーボールを蹴っている。
両親の離婚のせいか、中学時代の写真が見当たらないのが切なかったが、美弥の中学校の入学式の写真では、当時、荒れていたと言う、父の代わりに出席したのだろう―――
高耶は懐かしい高校の制服のブレザー姿で、セーラー服を着た美弥と肩を並べ、少し照れたように微笑していた。
そして、高校の教室で撮られた、数多くのスナップ写真。
実は、その殆どは、譲目当てにカメラを持ち込んだ森野沙織が撮ったものだが、楽しそうな譲の隣で、高耶はあきれたような、少し不貞腐れたような顔でこちらを睨んでいた。
美弥自身がシャッターを切ったと思われる写真は、聞かずともわかった。
それは室内で撮影され、高耶が一人で写っており、妹思いの彼は、カメラを向けられ、しょうがないな、と言う顔で、どれも笑っているからだ。
「高耶さん…」
直江は呟くように名前を呼んで、写真の中で微笑んでいる高耶の輪郭を指先でそっとなぞった。
そうしているうちに、不意打ちのように涙がこみ上げ、頬を伝い流れ落ちた。
「高耶さん……っ、」
どれほど呼んでも、かすかな光を、かろうじて保つのがやっとと言うほど、小さく弱くなってしまった彼の魂は、何も応えはしない。
けれど―――
(―――永劫の孤独を、埋めてありあまるほどの幸福を、お前に)
いつか景虎がくれた言葉が蘇り、涙が止まらなくなってしまった直江は、心の中で許しを乞うた。
(高耶さん……すみません)
(今日だけ、…泣いてもいいですか…?いまだけ、どうか―――許してください)
嗚咽を堪えることはできなかった。
直江は己の口元を抑え、彼らしくもなく号泣した。
「―――あああああ……!あああ……!」
「高耶さん……高耶……」
涙は次から次へととめどなく溢れ出て、いつまでも止まらなかった。