人魚の爪


BY k−330さま



 ACT・1  …一年前


 
 明け方、夢を見た。
 あの人が泣いている夢だった。

 起き上がってしばらく、直江は惚けていた。
 ゆっくりと背を伸ばして枕元に目をやると、時計の針は7時を指していた。
 明け方に見た夢は正夢になるという…。ふと、そんな迷信が頭を過る。
 直江は、ベットの上から起き上がった。
 毛足の長い贅沢なカーペットを踏みしだいて部屋を横切り、リビングテーブルの裾に配された電話の受話器を持ち上げた。
 指が慣れた仕種で躊躇なくプッシュボタンを叩く。
 直江は自分の携帯電話を使うときもメモリー機能を使用しなかった。便利ではあるが、大切な人へのアクセスの過程を省略するという行為を良しとしない、直江なりのこだわりだった。
 呼び出し音は、6回で途切れた。
『…はい。仰木です』
 不機嫌そのもののその声は、まさしく彼。
「こんなに朝早くからすいません。まだ寝てましたか?」
 自然と撓んでくる表情のまま、謝罪の言葉には甘さが漂っていた。
『……。誰だよ、てめぇ』
「つれないお言葉ですね、高耶さん。怒ってるんですか?」
『こちとら年末の大掃除の後、千秋とねーさんに取っ捕まって飲み会に付き合わされてよ。散々引っ張り回されて、ご前様で家に帰って。3時前にやっと寝床に入ったとこだ。おてんと様もまだ上ってないこの真冬の糞寒い朝っぱらからずーずーしく電話をよこすような大バカヤローは、いったいどこのどいつだ? 名前ぐらい名乗りやがれ!』
「……、」
 冷や汗が、タラリ… 
 女王様はずいぶんとおかんむりのようだ。寝不足の為というよりこれは、アルコールの入った絡み方だ。
「高耶さん…もしかして、酔ってますか?」
『酔ってねえよっ 』
 キーンと耳鳴りのするような怒鳴り声に、直江は思わず受話器を取り落としそうになった。奥の部屋では父親や妹が眠っているのだろうに。日頃、肉親には気を使いすぎるほどの気配りを見せる高耶らしくない無神経な言動。やっぱり酔っている。
「しょうがない人ですね…。今度、お酒の上手な飲み方を教えて差し上げますよ」
 直江はやれやれと、溜め息をついた。なんとなく、躰の力が抜けてしまう。
 しかし、高耶まったく聞いちゃいない。妙な具合に絶好調で、人の気も知らず電話口で威張りまくった口調で吠える吠える。
『用は何だよ、用は。こーんな朝っぱらからオレ様たたき起こすんだからな。よっぽど重大な御用があるんだろうなぁ。ええっ!』
「……。」
 問われて困った。理由はあるにはある。しかし――
(ここで、〜夢見が悪かったから〜なんて云った日には…)
 血を見るかも知れない。
“あなたの声が聞きたかっただけv”…なんてのも駄目だろう。
『おいコラッ。返事はどーした、返事は!』
「…困りましたね」
 溜め息混じりにそう呟いた途端、電話口に派手な笑い声が響いた。
『困りましたね、だってよ〜っ! ジジくせ〜っ!』
 絡み上戸で笑い上戸…。最悪。
「高耶さん…、」
 直江は脱力した。壁に縋ってしまいたい気分で眉間に手をやった。
 沈黙した直江に、尚も凶悪な笑い声が浴びせられる。
『直江、どしたぁ〜? 持病のギックリ腰かぁ?』
「高耶さん…。俺にはギックリ腰の持病なんてありませんよ」
『そうだったか〜? んじゃ、アレだな。不治の病。その名も水虫くん〜っ! いやーっ、ばっちい〜っ!』
「……、」
 直江はここに至って漸く自分の馬鹿さ加減に気がついた。
 酔っ払い相手に筋道のある真面な会話を求めたのがそもそもの間違いだった。とにかく自分のペースに持ってきてこの不毛な会話を終わらせることが得策だ。
「愛してます」
『ほえっ?』
 脈略なく云われた言葉に奇妙な奇声が返った。かまわず、畳み掛けるように先を云った。
「あなたは?」
『は?』
「俺はあなたを愛しています。あなたも俺を愛してますよね」
『えっ…と、その…?』
「明日朝9時に迎えに行きます。その頃には酔いを冷ましておいてくださいね、高耶さん。…聞いてますか、高耶さん?」
『まっかせなさ〜いっ!』
 一テンポ遅れて返事が返った。分かってるのか分かってないのか。とにかく声だけはでかい。
「いいお返事です」
 直江の心境はすでに、子供をあやす父親のそれである。
「では、明日お会いしましょう。約束を忘れないで。ゆっくりお休みになってください。おやすみなさい、高耶さん」
 受話器を置いて、思わず直江は天井を仰いだ。
 ベットイン前の飲酒は、キッパリやめさせることにしよう。万が一ということもある。
 そう固く心に誓った直江だった。


 商売人には盆も正月もない。それは、勤め先の社長が実の兄だという事で多少の優遇を受けている直江にしても逃れられないサラリーマンの悲しい性…というものだった。
 しかし、今年の聖夜こそは愛しいあの人と。何がなんでもこの日だけは死守しなければ! でも、どうせ休暇を取るのなら思い切って長期で取って。久しぶりに高耶さんと二人っきりで温泉にでも行ってのんびりしたい。
 そう思い立った直江は、涙ぐましい努力と、脅迫まがいのゴリ押し(休暇が取れないのならライバル会社にトラバーユすると社長=兄を脅した)で、クリスマスから年明けまでの二週間の長期休暇を見事にせしめたのだった。
 しかし、それでも他人任せにできない内容の物件のいくつかは已然あって。直江は松本市内のこのホテルにノートパソコン持参でやってきたのだ。
(わがままを云えば、今日のイブから一緒に過ごしたかった)
 パソコンの画面を開いて小さく溜め息をつく。
 直江は当然そのつもりでいたのだ。が、何事も自分の思い通りになるものではなかった。
『悪ぃ、直江。24日は駄目なんだ』
 連絡を取ったのは12月の初め。ウキウキした気分で旅行の計画を持ちかけた直江に対しての高耶の第一声がそのつれないお言葉だった。
『誰かと先約でも?』
 出鼻を挫かれて気分は急降下中ではあったが、努めて冷静にお伺いしてみた。
『ん…。美弥と二人、譲ん家に呼ばれてんだ。もう約束しちまったし…』
『クリスマスからなら、大丈夫ですか?』
 それならそれで…と気を取り直して問い返す。
『……、』
 しばしの沈黙。
『た、高耶さん?』
 まさかの思いに、情けない声になる。
『大丈夫…だと思う』
『他にも、何か先約とかあるんですか?』
 どうも乗り気でなさそうな高耶の返事に少々傷ついてしまった。
 高耶にもこちらの様子は分かっているようで。電話から忍び笑いが聞こえてきた。
『高耶さん?』
『おまえさあ、オレと旅行することしか考えてねーだろ?』
 笑いながら高耶は云った。
『確かに…その通りですが』
 それが何か不味かっただろうか。
『クリスマスと大晦日と正月。年間の一大イベントを二人っきりで。それも男同士だぜ?なんか、すっげえ恥ずかしくないか?』
 云われてみれば、なるほどそうだ。
 恋人同士…という関係が既に定着している今、当然のように持ちかけた話ではあったが、世間一般的に云えば、声を大にして云える関係ではないのだった。
『オレ、美弥にどー云って家を出ようか今から頭が痛ぇよ』
 拗ねたようなテレたような高耶の声。直江の胸に甘いものが込み上げてきた。
『それでも、約束してくださるんですよね』
『しょーがねぇよな。どーせおまえのことだ。もう行き先も決まってて、泊まるとこも予約してあんだろ。ったく…、ちったあ人の都合ってもんも考えろよな!』
 恋人の詰り言葉を直江は幸せな気分で聞いている。
『すいません。せっかちなんです』
『けど悪ィな。24日だけはホント断れねーんだ。美弥、結構楽しみにしてるし』
『いいんですよ。大事なお兄さんを十日以上も独り占めするんですから。美弥さんには寂しい思いをさせてしまいますよね。私のほうこそ考えなしでした。お土産だけで
も奮発させていただきます』
『ん…。オレも、それまでの冬休みはしっかり兄妹のスキンシップ取っとくよ』
『すいません。私の我儘ために』
『おまえの為だけじゃねえよ。バカ』
 思い出しただけで顔の表情が綻んでしまうほど甘い会話。
 それから今日までの長くも短くも感じられた期間、直江は始終幸せな気分でいられたのだから予定が一日狂ったぐらい軽く帳消しできるはず。これ以上の贅沢は慎むべきだろう。 
 直江は思い直して、やれやれと苦笑し、パソコンに向き合った。
 そして、今日中に上げておかなければならない仕事を仕上げることに専念した。


 高耶から電話があったのは、それから丁度5時間後。12時頃だった。
 ホテルのフロントからの呼び出しの後、電話は内線から外線に切り替わった。
『もしもし、直江?』
「直江です。どうしたんです? ご自宅からですか?」
『うん。ついさっき美弥に叩き起こされてさ…』
「酔いは冷めましたか?」
 直江は笑って云った。
『…ゴメン。オレ、なんかすっげぇ酔っ払ってたんだって? オレあんまり憶えてねーんだけど。おまえからの電話に出て、いろいろ怒鳴ってたって…』
 高耶は、なんとも申し訳なさそうな声でボソボソと云う。
『今まで正体無くすほど酔ったことなかったから、加減が分かんなかったんだ。美弥に思いっきり怒られちまったよ。“おにーちゃん、サイテー”とか云われてさ』
「長秀と晴家に、二人がかりで無理に勧められたんでしょう。完全な嫌がらせですね。今度会ったらとっちめといてやらないと」
『で…な。明日のことだけど。やっぱりオレのほうがそっちのホテルに行くからさ。
迎えはいいから』
「こちらから迎えに行きますよ。駅まで遠いですし」
『いいって。やっぱその…おまえが家まで迎えに来るのって何かテレるし』
「私はぜひ迎えに行かせていただきたいんですけど?」
『駄目だって。オレのほうがそっち行くから。…おまえ、たまには譲歩しろよ!』
 いつまでたっても甘い関係に慣れない照れ屋の恋人に、直江は苦笑した。
「はいはい、分かりました。私はホテルで大人しくあなたが来るのを待っています
よ」
『それでよろしい。で、そっち着くのは9時でいいよな』
「ええ。それで充分です。お待ちしてますよ。…ところで、譲さんの家に行かれるのは夕方からですか?」
『ん。5時頃行って、ツリーの飾り付け手伝うんだ。美弥の奴、譲の母さんが料理作るの手伝うって今からはりきってる』
「そうですか。楽しそうですね」
『めったないことだもんな。こーいうのって』
「高耶さんと美弥さんが私の家に居候してくれたら、毎日そういうことができますよ」
『その話はパスって何度も云ってるだろ!』
「私はまだ諦めてませんよ。もっとも。どうせなら二人きりの同居生活の方が私はう
れしいですが」
『その話もパス。しつこい男は嫌われるぞ』
「高耶さんに嫌われることほど悲しいことはありませんからね。とりあえず諦めます」
『とりあえずってなんだよ、とりあえずって。…ったく。じゃあ、明日そっち行くから。寝坊すんなよ』
「高耶さんも。朝、道路は凍結してるんじゃないですか? 気をつけてくださいね」
『大丈夫だって。通学で鍛えてあるって』
「それでは、明日の朝。お待ちしています」
 電話は切れた。
 直江は電話が切れてもすぐには受話器を戻さず、ツーツーという不通音を聞いていた。
 そして、何となく未練がましい自分に苦笑して受話器を置いた。
 明日になればあの人に会える。ほぼ一ヶ月ぶりの蓬瀬。
 直江は、切なさに胸を熱くして一人微笑んだ。



 ACT・2  …夢の中


 
 明け方、夢を見た。
 久しぶりに見た、あの人の夢だった。


 奇妙な感じで目が覚めた。
 フットランプだけが光る闇の中、枕元の時計の電子音が微かに響いている。
(……、)
 直江は、霞がかかったようにハッキリしない頭を何度か振った。
 何故こんな時間に目覚めてしまったのだろう。薬の力で、それこそ死んだように眠りこんだはずなのに。
 と。ベットから起き上がりかけた直江の耳にカタン…と、小さく音が響いた。
(……?)
 直江は無意識に音のした方向、部屋の扉の方へと視線をやった。
 何者かの気配が扉の外に微かに感じられた。
 しかし。特別な力全てを使命の終わりと同時に失った今の直江には、それが何であ
るのか容易に察することはできなかった。
 スッと。ベットサイドに足を下ろし、足音を消してドアの前まで歩いた。
 確かに何かが…誰かがドアの外に気配を押し殺して佇んでいる。
 直江は、自分の目線より心持ち下にある覗き窓から外を確認した。
 そこに佇んだ人物を認識するや否や、直江は慌てた仕種でドアを開けた。
「高耶さん!」
 その姿を直視した途端、直江はくらりと目眩のようなものを感じた。
「高耶さん、いったい…!」
 高耶は全身ずぶ濡れだった。
 うなだれたまま何も云わない高耶を直江は抱き込むようにかかえて部屋の中に引き込みドアを閉めた。
「いったいどうしたんです――、こんな夜中に…っ」
 触れた腕も頬も氷のように冷たい。
「高耶さん…?」
 重ねて問いかけても、高耶は無言のまま。何か云いたげな、泣いているような潤んだ眸で見上げてくるだけだ。
「なぜ、何も云ってくださらないんですか?」
 何も云おうとしない高耶に、直江は胸の焼けるような焦燥を感じた。それでも、尋常でない躰の冷たさにそれ以上の危機感を感じて、胸に蟠る疑問を敢えて無視した形で高耶を浴室へと導いた。
 浴槽のコックを限界まで捻ってお湯を勢いよく流し、高耶のぐっしょりと濡れて重くなった服の全てを半ば強引に引き剥いだ。
「…とにかく温まってください。充分温まるまでここから出て来ないように。いいですね」
 ある程度お湯が溜まった浴槽の中に高耶を浸らせて、強く言い聞かせる口調でそれだけ伝えて自分は浴室から出た。
 濡れてしまった手を手早くタオルで拭って、受話器を取り上げた。ダイヤル0でフロントを呼び出す。
「…夜分に申し訳ありません。至急、追加でガウンと毛布を一枚づつ用意してもらえませんか。それから風邪薬を。熱冷ましがあればそれも。……はい。それでけっこうです。急いでお願いします」
 受話器を置いて、直江はふと窓を見た。近づいて勢いよくカーテンを開け、温度差で曇ったガラスを腕で拭き取る。
 思った通り、雪は降っていなかった。もちろん雨も。
 ではいったい何故、高耶はずぶ濡れだったのだろう…? 不可解さに、直江は眉間に皺を寄せた。
 軽いチャイムの音が直江の思考を途切れさせた。
 素早くドアを開け、ホテルのボーイから用意されたものを受け取った。
「他に御用はございませんか?」
 利用するときは必ずスイートを予約する上客に、ボーイはにこやかに問いかけた。
 何も…と云おうとした直江は、高耶の着ていた濡れた服に思い至った。
「これをクリーニングに出しておいてもらえますか」
 白いトレーナーとソフトジーンズを手渡そうとしたとき、チャリ…と何かかその中から落ちた。
 拾い上げてみるとそれは、淡いピンク色の貝のキーホルダーの付いたバイクの鍵だった。
 ジーンズのポケットから落ちたらしいそれを拾い上げ、ボーイが下がったあと、部屋のほぼ中央にあるガラスのテーブルの上に置いた。
 そして、渡されたガウンを持って、浴室に入った。
「高耶さん。…躰は温まりましたか?」
 声をかけても、相変わらず返事はない。ぼんやりと、壊れた人形のように浴槽の中に座っているだけの高耶に直江は小さく溜め息を吐いた。
「高耶さん…」
 タイルの上に膝をついてもう一度声をかけると、高耶はのろのろと顔を上げた。しばらく目をうつろに漂わせて、直江に焦点が合うとそのまま視線を固まらせた。そうして見つめたままピクとも動かない。
「もう…大丈夫ですね?」
 胸の奥の訳の分からない焦燥がより深くなっていくのを感じながら、直江は努めて冷静な声で問いかけた。
 応えが返らないのを見て取って、つと濡れた頬に触れ、張り付いた前髪を優しく払ってやって体温を取り戻した躰を浴槽から引き上げた。
 タイルの上に立たせて濡れた髪と全身をバスタオルで包んでも高耶は自分では何もしようとはしなかった。
 甲斐甲斐しく躰を拭っていく直江をじっと見詰め、高耶は両腕を上げた。
 不意に抱きつかれて、直江の手からバスタオルが落ちた。
「高耶…さん?」
 直江のガウンに顔を押しつけてしがみついた高耶が顔を上げた。
(っ……、)
 ズクン…と躰の芯が疼いた。長いこと飢えていた欲が、絡め取るような力を持った眼に間近から覗き込まれて残酷なほど揺さぶられた。
 無意識に躰が動き、きつく抱き竦めたまま口付けた。深く深く、相手の舌を自分の中に取り込むように吸い上げ、何度も角度を変えて唇を蹂躙した。
 唾液の糸を引いて漸く唇を解くと高耶の唇から熱い吐息が漏れた。しかし、言葉はない。

「…どうして、何も話してくださらないんですか?」
 直江は、背中に回されていた高耶の両腕を取って詰るように云った。それでも高耶はただ見詰めるだけで言葉を発しようとしなかった。
 そのことに直江は苛立ちを憶えた。こんな時間に、ずぶ濡れにままここまで来て、こんな眼をして人を煽っておいて…何一つ答えをくれない。手がかりすら与えてくれない。
「せめて、俺の名を呼んでください。いつものように、直江…と」
 できるだけ優しく、直江は云った。それでも高耶は応えない。拒否を表わすように、静かに目を閉じる。
「無理矢理、聞いて欲しいんですか?」
 応えない高耶に焦れて、直江は声を心持ち荒げた。強引に高耶の躰を引き摺ってベットの上に横たえさせる。
「俺はあなたを抱きますよ。飢えてますからね」
 わざと嘲るように云った。
「俺の名を呼ばせてあげますよ」


 まだ湿り気を帯びた髪に指を絡ませ唇を塞ぐ。利き腕は浮かせた背中を辿り、しばらく腰を彷徨った後、欲望を飲み込ませる場所に触れた。
熱く掠れた息を継ぐ高耶の喉に食らいつき、躊躇無く指を突き入れる。
「……ッ」
 音にならない悲鳴が触れた喉から伝わった。
「声を聞かせて、高耶さん…」
 残酷に卑猥な音を立てて指を蠢かせて囁く。知り尽くした相手の敏感な場所を執拗に責めながら唇を徐々に落とし、股間のそれを含んだ。
 瞬間、ヒュッと空気を切るような音が高耶の喉から漏れた。同時に背が弓形に反り返る。
 後ろを深く抉るように刺激しながら前を含んだ口を淫らに上下させ舌で弱い箇所を嬲ると、高耶は顔をのけぞらせて声もなく啜り泣いた。
 快感に痺れた足がシーツの上を彷徨い、男の髪を掴んだ指が強ばる。一瞬の硬直のあと高耶のそれは弾け、直江の口内に白い粘液を吐き出した。
 直江は、高耶の無防備に投げ出された両足首を掴み、膝を折らせて躰の両側に付けて限界まで股間を開かせ、熱く熟れた場所を露にした。ゆっくりと起き上がり、目に涙を浮かべて喘ぐ高耶を見下ろして、自分のガウンの前をはだけた。
「コレをあなたに入れてあげますよ。じっくり俺を堪能させてあげる」
 はだけた前から覗く充分充実したものを高耶のそこに押しつけた。煽るようにゆっくりと腰に力を込め、震える入り口を突いた。
 一度に全てを受け入れることができず、高耶の躰は圧迫されてずり上がる。それを肩を押さえつけて固定し、無理矢理ねじ込んだ。
「…ッ……ッ!」
 高耶の口が悲鳴の形に開かれ、硬直した。
 そのあまりの不自然さを目にして直江は漸く気づいた。
(まさか…)
「高耶さん、まさか声が…」
 応えない…のではなく、応えたくても声が出ないのだ、高耶は。
 思い当たって、直江は絶句した。
「いったい、どうして…っ」
 今の今まで気づいてやれなかった自分を腹立たしく思いながら直江は押し殺した声で叫んだ。
 憤る直江に、高耶は切なげに微笑んだ。目に涙を貯めたまま。
「どうして…?」
 問い掛ける直江に、高耶は微笑んで。自身を詰る直江を慰めるようにその顔を頭ごと抱きしめた。抱きしめて自分から口付けた。
「高耶さん…っ」
 自分の頭を抱える細い滑らかな腕に愛しさが込み上げてくる。一年ぶりに触れた躰に、胸苦しさが込み上げる。
 一年ぶり…?
 ふと浮かんだその言葉に、直江はギクリと躰を強ばらせた。
 形の掴めない不安に胸を圧迫された。
 しかし。その不安は、手の中にある自分のものにした躰を前に容易く掻き消された。濡れた目で欲しがる欲を隠さない愛しいものに塞き止められていた欲望が再び膨れ上がる。
「あなたを…愛している……」
 直江は呟き、何もかもを許した目で見上げてくる高耶をきつく抱きしめた。記憶にあるよりもずっと華奢に感じる躰に目眩を憶え、無我に抱いた。
 欲望を突き立て、従順な躰を思うさま責め、狂うほど貪って、そして果てた。
 満たされて眠るその瞬間に、直江は確かに声を聞いた。

(愛してるよ、直江……)

 愛しい、声――。



 ACT・3  ……現在


 いつもなら憶えていない夢の内容を今朝は何故かハッキリと憶えていた。
“あんた飲み過ぎよ。自分でもわかってんでしょう?”
 昨日、晴家にしつこくそう言われてアルコールを控えたせいだったろうか。

 朝、電話のコール音で目が覚めた。
 枕元で鳴り響く音を疎ましく思いながら伸び上がり、受話器を取った。
『おはようございます。柿崎様とおっしゃられる方よりお電話が入っております。お絡ぎいたします』
 穏やかな声のフロントからのメッセージのあと、外線に切り替わった。
『おはよう、直江。しっかり目は覚めてる? 用意できてる? 今日が何の日だか分かってるわよね。今更行かないなんてナシよ。…聞いてんの、直江?』
 切り替わるなり。立て続けに責めるように云われて、直江は苦笑した。
「今、おまえの電話で起こされたところだ。すぐ仕度する」
『……やっぱり私、そっちに迎えに行こうか?』
「いや。大丈夫だ。…そう心配するな。昨日は酒も飲まずに大人しく休んだからな。おまえが心配するようなことは何もない」
『そう…。ならいいけど。じゃ、先に行って待ってるから』
 綾子は、不安を隠した口調で電話を切った。
「待ってる…か。ずいぶん信用されてないな、俺は」
 受話器を置き、直江は自嘲気味に呟いて浅い溜め息を吐いた。
 寝そべっていたべットの中から抜け出し、備え付けのクローゼットの中から身に付けるもの一式を取り出す。
 定番の黒のスーツに腕を通してネクタイのゆがみを直し。
 テーブルの上に放置していた車のKeyを取ろうとした指が瞬間、強張った。
 磨かれた石のテーブルの上には、明らかに自分の持ち物ではない物があった。
 直江は、震える指でそれを掴み上げた。
 手にしたものを見詰めて、信じられない思いと信じたい思いに直江は混乱した。
「…高耶…さん……?」
 誰もいない空間に向かって名を呼ぶ。しかし、応えなどない。
 混乱した頭と胸の痛みを抱えて、直江は足早にホテルの部屋から出ていった。


「あ、来た来た。直江――!」
 車から下りた直江に、丁度マンションの玄関口にいた綾子が声をかけた。
 その後ろから千秋が顔を出し、表情をくしゃりと崩した。
「逃げ出さずに来たのか。偉い偉い」
「長秀!」
 綾子が咎める声を上げて振り返る前に、千秋はさっさと部屋の中に退散した。
「直江…」
 何事もなかったようにゆっくりと階段を上がってくる直江に、綾子は辛そうに声をかけた。
 直江はそれへ薄い笑みを返し、玄関口ですれ違う一瞬、大丈夫だ…と云うように肩を叩いた。
「橘さん! 来てくださったんですね。…うれしい」
 しばらく見ないうちに垢抜けて女らしくなった美弥が直江を出迎えた。
「お父さん、今近所のおばさんのとこ行ってていないんですけど…。どうぞ。遠慮なく上がってください」
 黒いワンピースに、腰まで伸びたストレートの髪。この綺麗な髪は、一年前から切っていないという。
 綾子から聞いたそれを思い出して、胸がまた痛んだ。
「準備が大変だったでしょう? 夜は、眠れましたか?」
 優しく云われた思いやりの言葉に、美耶は心持ち頬を染めて答えた。
「いえ。準備にはそれほどかかってないんです。あんまり大袈裟にしないほうがいいと思って。それで、お料理も手の混んだものは作ってないんです。だから、たいしたお持て成しはできないんですけど」
「私も手伝ったのよ。ね、美弥ちゃん」
「ええ。綾子さんがいてくれて、とっても助かりました」
「食う前におまえの作った料理教えろ。新年を下痢で迎えるのだけは勘弁されたいからな」
 ドアから、ヒョイっと顔だけ覗かせて、千秋が言った。
「…あんたは何も食わんでよろしい」
 千秋と綾子のいつもの繃き合いを横目に、直江は美弥に向かって笑いかけた。
「ところで。美弥さんにお聞きしたいことがあるんですが」
「はい?」
「…これに、見覚えはありませんか?」
 スーツの内ポケットから取り出したそれを、目の前にかざす。
 美弥は目を見開いて小さく驚愕の声を上げた。
「…見覚えが、あるんですね」
「どうして、それを直江さんが? だってそれはあの時…」
「直江!」
 いきなり叫ぶなり、綾子は直江の手にあるものをひったくった。
「晴家?!」
「綾子さん?」
 同時に叫んだ二人に向かって、綾子はにっこりと半ば痙った微笑みを浮かべた。
「やだ、これ私のじゃない。直江ん家に行ったときに忘れたのかしら。探してたのよ
ね〜」
「綾子さんの…なんですか、それ」
「そ。神戸行ったときだったかな〜。道端で買ったの。意外と珍しくないものみたいね、これ」
 疑わしげに見返す美弥に、ニコニコと明るく答えた。そして、密かに千秋に向かって目配せした。
「美〜弥ちゃん。昔のアルバムとかあったら見せて欲しいんだけど。いいかな?」
「あ‥、はい。じゃあ、探してきます」
 美弥は納得できない顔で、それでも千秋と一緒に奥の部屋に消えた。
 それを見送って、綾子は大袈裟に溜め息を吐いた。
「ちょっと直江。やめてよね、心臓止まるかと思ったわよ」
「晴家…?」
「いくらなんでもね、墓荒らしは不味いわよ。気持ちは分かるけど」
「どういうことだ?」
「どういう…ってねぇ。誤魔化したって駄目よ。あんたは知らなくても、他はみんな知ってんだから。墓荒らしでもしない限り、これがあんたんとこにあるわけないでしょ」
「……」
「この桜貝のキーホルダー。これって、去年美弥ちゃんが景虎にクリスマスプレゼントにあげたものよ。…ほら、内側に名前が掘ってあるでしょ。桜貝は人魚の爪だっていう言い伝えがあるから、昔は不老不死の妙薬になるって言われてたのよね。それでね…」
 市内の駅前の露天で、そんな話を聞かされて。
『お兄ちゃんったら生傷絶えないんだもん。だからね…、これお守り。不老不死なんて絶対無理だけど…とりあえず怪我しないように。それから怪我しても早く治るように、ね』
 そう云って、手渡したのに。
「焼いたお骨を埋めるとき、美弥ちゃん、これも一緒にって云って。泣きながら土をかけたのよ」
 綾子は、悲しい目で笑う。
 高耶は、去年のクリスマスの朝、死んだ。死因は溺死。
 その日の朝、道路は深雪で埋まっていた。それでも、駅までの道は高耶には通い慣れた道で。いつもであれば危険など無いはずの道だった。
 不幸が起きたのは凍った橋に差し掛かった時。左折して橋を渡ろうとしていた高耶の目の前で道路脇で遊んでいた子供が転んだのだ。それを避けようとして無理にハンドルを切って。川に落ちた。
 子供を迎えに来た親は、そこで起きた事故にすぐには気づかなかった。“バイクが落っこちた”…という言葉を子供から聞いてはいた。しかし、それが人の乗った本物のバイクだとは思わなかったのだ。
 子供の親が事実に気づいたときには、既に1時間が経過していた。
 魔王すら退け打ち負かした強大な力を持ったその人の400年の長きに渡る生に終止符を打ったのは、冷たく凝った真冬の川の水だった。
「直江…?」
 不安げな綾子の声に、我にかえった。
 そして直江は、自分が微笑んでいることに気づいた。
「晴家。俺は墓荒らしなどしていない」
「でも、それじゃあ…どうして」
「朝…俺は夢を見た。あの人が俺に逢いに来た夢だ」
 夢の続きを見るような目で直江は云った。
 綾子は、ハッと息を詰めた。
 直江の目を見、一度目を伏せた。そして顔を上げて緩やかにに微笑んだ。
「…じゃあ、これは夢の名残りって訳ね」
「ああ…」
「よかったわね、直江。夢でもいいから逢いたかったんでしょう?」
「よけいに、未練が募った気もするが…」
「贅沢ってもんでしょう、それは」
 綾子は泣いていた。でもそれは、悲しみの涙ではなくて。
 階下で短いクラクションが二度響き。二人は窓の外を見た。
「譲くんの車だわ。無事に色部さん拾ってきたみたいね」
 窓の外には、雪が降りはじめていた。
 一年前に降っていたものと同じく冷たい、それでいて決して同じではありえない白い雪。
 直江は、その雪が生まれてくる灰色の雲を見上げて祈った。
 声を聞かせておくれ。愛しい声を。


 おまえを愛しているよ、直江……



end.




*椎名コメント*
K−330さまからの素晴しい頂き物です。
高耶さんが、高耶さんがあ〜・・・(><)愛おしくてせつないです(号泣)

K−330さま、素晴しい作品をありがとうございましたm(_ _)m
ぜひぜひ、また書いて下さいね!!


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